大人ピアノ指導法:大切な機会「体験会での進め方」
レッスンの現場では、「ごめんなさい」「私なんてダメです」「全然できません」といった言葉を、何度も口にされる方がいらっしゃいます。
指導にあたっている方でしたら、「ああ、そういう方、いらっしゃるな」と感じられるかもしれません。実際、決して少なくありません。
たとえば、こちらが
「本当に素敵に弾いてくださいましたね」
「とてもいい音でしたね」とお伝えしても、
「いいえ、全然」「こんなのダメです」「私はまだまだです」
と、褒め言葉をすべて打ち消してしまわれるのです。
もちろん、ご本人がご自身をどう評価なさるかは自由です。けれども、その言葉が繰り返されることで、講座全体の空気が少しずつ暗くなってしまうことがあります。周囲の雰囲気を重くし、せっかくのあたたかな学びの場が、しぼんでしまうこともあるのです。
こうした場合、私たちはどうすればよいのでしょうか。
受講生の皆さまは、私たちより年上でいらっしゃることも多く、何かをお願いしたり、お伝えしたりすることにためらいを感じることもあります。けれども、指導者である以上、このレッスンの場をより良いものに整えていく責任があります。
ですから、そういう場面では、私ははっきりお伝えするようにしています。
「そのお言葉は、ここでいったん止めましょう」 「もしよろしければ、まず“ありがとう”と受け取ってから、お気持ちをお話しいただけますか」
そんなふうにお願いしてみていただきたいのです。
昔、とても印象に残っている方がいらっしゃいました。仮にKさんとします。Kさんは、いつも黒いお洋服ばかりをお召しになっていて、全体にどこか沈んだ印象の方でした。
レッスンの中で私が「とても素敵に弾いていらっしゃいますね」
「とてもお上手ですよ」とお伝えしても、
「そんなの全然よくない」「こんなのでは弾いたことにならない」
「私は全然うまくならない」「もうダメだわ」
と、必ずご自身を否定されるのです。
あるとき、私は意を決して、こうお願いしました。
「Kさん、もしよろしかったら、褒め言葉をお伝えしたときに、ひと言だけで結構ですから、“ありがとう”と言っていただけませんか。そうしていただけたら、私はとても嬉しいのです」
Kさんは、どこか照れくさそうに、納得しきれないご様子でした。
そして次の機会、やはり私が褒め言葉をお伝えすると、案の定、“ありがとう”は出てきませんでした。
そこで私は、その場であらためてお伝えしました。
「Kさん、よろしかったら、まず“ありがとう”をお願いします。そのあとでご意見をどうぞ」
少し強めに、でも本気でお伝えしたのです。
すると、Kさんは、少し不本意そうにしながらも、「……ありがとう」と口にされました。
実は、「ありがとう」や「嬉しいです」「よかったです」といった言葉を口にする習慣が、長い間なくなってしまっている方は、少なくありません。
けれども、不思議なもので、たとえ最初はぎこちなくても、「ありがとう」と言葉にするようになると、少しずつその方の雰囲気が変わってこられるのです。
Kさんも、二度、三度と繰り返されるうちに、表情や場の空気が少しずつやわらいでいきました。
そして、ある日。
いつも黒いお洋服ばかりだったKさんが、明るい色のお洋服を着ていらっしゃったのです。私は驚いて、
「Kさん、今日はどうなさったのですか?」とお聞きしました。
するとKさんは、こんなお話をしてくださいました。
久しぶりに東京に住む娘さんに電話をしたところ、娘さんから
「お母さんが“ありがとう”なんて言うの、何年ぶりかしら」
と言われたのだそうです。
そのときKさんは、はっとされたそうです。
自分は長い間、「ありがとう」を言わずに生きてきたのだ、と。
そして、「らくらくピアノの先生に、“ありがとうを言ってみましょう”と言われていた」ということを思い出されました。
それから意識して、知り合いの方にも「ありがとう」と伝えるようにしてみたところ、周囲との空気が変わり、ご自身の気持ちも明るくなってきた。
だから今日は、明るい色の服を着てみたのだと、そう話してくださったのです。
私はそのとき心から「よかった」と思いました。
これこそが、レッスンの持つ力ではないかと思うのです。
上手に弾けるかどうか。きれいに演奏できるかどうか。
それももちろん大切です。
けれど、それ以上に、音楽を通してその方の生き方や心持ちが変わっていく。言葉が変わり、表情が変わり、人との関わり方が変わっていく。そこに、私は大きな価値があると感じています。
さらにKさんのお話をうかがうと、ご主人を亡くされてから、「明るい服はもう着ない」と決めていらしたそうです。明るい服を着ることが、まるで喜んでいるように思えてしまい、ご主人を慕う気持ちに反するように感じておられたのです。
だから、タンスを開けても黒、引き出しを開けても黒。
それを半ば誇らしげに話しておられたほどでした。
けれど、そうした日々の中で、「ありがとう」という言葉までもが遠のいてしまっていたのかもしれません。
このお話は、とてもわかりやすい一例です。
私たちはレッスンの際、自分自身の言葉に気をつけることはもちろん大切です。けれど同時に、受講生の方にも「こうしていただくと、もっとこの場が良くなりますよ」と、丁寧にお伝えしていくことが必要なのではないでしょうか。
そのひと言が、その方ご自身を変え、場の空気を変え、人生を少し明るくしていくこともあるのです。


