「時間」の概念は存在するのか?
今年8月のコラム(今回の3回前)で「「真空」はほんとうに無なのか?」について書きました。そしたら、なんと、月刊科学雑誌「ニュートン」の今月号(11月号)に、「真空は空っぽではない!「真空には何かが満ちている」」の特集が載っていました(写真:クリックで拡大)。
普通であれば、月刊誌が先に発売(原因)→それを見たからコラムを書く(結果)の順番になると思いますが、逆になっています。以前、「結果が先-原因が後」もあり得ると書きましたが、同様のことが起きていると思います。
もちろん、私は雑誌に関する情報は何も持っていません。8月発売の「ニュートン」にも、次回の特集の予告としての掲載はないと思います。加えて、私は「ニュートン」の雑誌を買うことはありません(さすがに今回は買ってしましたが(^_^;))。「偶然」書店に寄ったら「偶然」目に止まったものであり「偶然」の連鎖です。
さて、こういう余りにも「偶然」すぎる出来事を目の当たりにしますと、「偶然」を乗り越え、人によっては、何かがある、例えば、「何かの予兆かも!」,「神様のお告げでは?」などと考える人もいると思います。
もし、このような現象に、何かの法則に基づく因果関係が存在しているとすれば、この「偶然」は、まさに「必然」ということになります。結果的に、「偶然」も「必然」も境がわからなくなります。したがって、「偶然は必然,必然は偶然」も成立し得るのではと思っています。そして、この場合においても「時間の概念は存在しない」ことになります。
要は、信じるか信じないかの問題となりますが、誰でも、人生の中で様々な出来事に遭遇します。そして、その出来事に対する捉え方はみんな違います。「偶然」と捉えて終わりにする人もいれば、何か「必然」に起きていると捉えてそれを信じる人もいます。男女の出会(結婚)が良い例かもしれませんね。
言い方を変えれば、同じものであっても、それを「捨てる人」と「拾う人」がいるということになり、まさに、人生は自からが選んで行くことになります。
人生で遭遇する出来事に対する「偶然」か「必然」かは、「神様のみが知る」ことであり、人が判断できるものではないかもしれません、別の言い方をすれば、人としてのエゴや欲を捨て、謙虚な心で物事を見つめることが最終的に最も良い結果に結びつくものと思っています。