「ほんのちょっと」から始めましょう
真摯に生きる親の姿
ある競技をされている女性から、メールを頂いた。
お子さんをお1人で育てながら続けてらっしゃると言う。
メールのやり取りのなかで
初めは周りから「何を考えているの?」と言われながらも
決して投げ出すことなく続けて来られて
今ではそれを「羨ましい」と言われてらっしゃるらしい。
仕事もしながら並大抵のことではないだろう。
私の周りには、子育てのみならず、いろんなものを抱えながら
自分のやりたいことを(どちらかと言うとお金にはなりにくいことを)
あらゆる努力をしながら継続してきた人がたくさんおられる。
ある程度の年齢までそれを続けてきた人は
渦中にいる人を共感を持ってみている。
子供を持ちながら、自分のやりたいことを続ける
これは自分のエゴではないのか?
子供に淋しい思いをさせても続けていくものなのか?
気持の揺れの大小はあっても
そう思わなかった人はほとんどいないだろう。
価値観も倫理観も人によって違う。
親は子の成長を大事に考え、自分のことは二の次だろうと
考える人には信じられないことだろう。
どれが正解とは言えない。
しかし長い年月を休むことなく続けてきた者は
荷物が両手いっぱい、背中に腰にたくさん乗っけてでも
優先順位が入れ替わることがあっても
決して変えることができないほどに大切なものだったのだと
考える。
親や子供、家族とどちらが大切か、と問われても
較べられるものではない。
どれも大切な自分の柱として、存在しているからだ。
自分にとって、それほど大事なものを断ち切って笑顔でいられるならば、それもよいだろう。
だが、人は人の為にだけ生きられない。
子供を持ち、家族があれば責任がある。
しかし、子供や家族のために何もかも諦めて
不満を持って生きるのも誰にも幸せとは言えない。
生きる喜びがなければ死んでいるのと同じだ。
喜びと苦悩を併せ持つことはどの選択肢をとっても切り離せない気がする。
だから抱えきれないほどの荷物を持ちながら、懸命に生きる。
仕事を持つ私の母はいつも家にいなかった。
姉は淋しいと言った。
私は親が家にいないとなぜかほっとした。
反発ばかりしていた娘だったが、仕事に打ち込む姿はカッコ良いと思っていた。
親が年老いた時
真摯に生きてきた姿を誇りに思うようになった。
仕事を続けながら懸命に育ててくれたことに心から感謝した。
親をどうとらえても、どの年代でも親を有難いと思い続けられる訳ではない。
反発して煙たく、良く思えない時期がある。
親が常に家ににいても、外に出ることが多くてもそれは変わらない。
どんな選択肢でも
親が真剣に何かに打ち込む姿は見せてほしい。
子供の成長過程ではとらえ方は違うが
いつか真に理解するときは来る。
親も子供もひとりの生きる人間。
親も子供も死ぬまで成長過程。