第1回無為塾(講演会&詩集読書会) 終了しました!
4月5日(日)は姫路文学館で第4回無為塾を開催しました。
テーマは「40代からの人間的成長論」。
21名の方が参加して下さいました。
不登校という神様からの贈り物
ある時あるお家に神様から「不登校」という贈り物が送られてきます。
お家の人はそれが神様からの贈り物とは知らず「うちの荷物ではありません」と受け取りを拒否します。
それでもやっぱりそのお家に送られたものなので「不登校」は再配達されます。
再び「うちの荷物ではありません」と受け取りを拒否します。
配達人は一旦は持ち帰りますがまた再配達に訪れます。
これの繰り返しをしているのが不登校のお家なのです。
事態は進行せず停滞したままです。
話が進まないのです。
では、どうすればいいのか?
受け取ればいいのです。
そうすれば話が進み事態は変化します。
具体的には不登校を許し、学校に行かそうともせず、昼夜逆転も直そうとせず、ゲームも規制しようとせず、子どもの自由にさせる。(これが普通の親にはなかなか出来ません)
親が自分の価値観や常識から脱し、開き直って「自由にしていいよ」と心からそう言えたとき自分を縛り、家族を縛っていたものから解き放たれ、自由に楽しく生きられるようになるのです。
そのきっかけとなるため子どもは不登校となってくれているのです。
あなたの後半の人生が自由で豊かなものになるようにと神様が不登校という贈り物をしてくださったのです。
その贈り物を受け取れたとき子どもはもう不登校でいる必要はなくなるのです。
子どもは安心し、元気になり、好きなことを見つけます。
それはゲームかもしれないし、アニメかもしれない。
阪神ファンかもしれないし、推し活かもしれません。
そこが不登校の出口なのです。
それらが子どもを外の世界へと連れ出してくれるのです。
無為塾が大切にしていること

1、無為自然(むいしぜん)
ペットボトルに水と泥が入っているとします。それを振ると濁った泥水になりますね。
真水に戻したいならどうしますか?
何もせず放置しておけば自然に泥が沈んでいき上の方は真水になります。
つまり「何もしないで放っておく」ことが一番いいのです。
何もしないというのが一番の解決である。
自然の流れに任せておくのが一番いい。
そういう時、そういう場面は人生において本当にたくさんあるのです。 
2、上善如水(じょうぜんみずのごとし)
水は丸い器には丸く、四角い器には四角く入ります。
こだわりません。
また岩にぶつかっても避けて流れていきます。
争いません。
水は低い方低い方へと流れます。
人の下へ下へと身を置きます。
そのような生き方ができる人こそが理想です。
3、知足者富(ちそくしゃふ)
足るを知るとは「贅沢を言ったらキリがない。貧しい国もいっぱいあるのだからこれくらいで満足しなさい」という意味ではありません。
足るを知るとは「今の自分で、今の子どもで100点満点であった」と気づくことです。
ダメなところや欠点も含めてそれら全部であなただし、あなたの子どもなのです。
それが本当にわかったら今を楽しめるようになりますし、今に感謝できるようになります。
そのような満ち足りた心で生きることが豊かさなのです。
4、柔能制剛(じゅうのうせいごう)
柔よく剛を制す。
それは力を抜いて逆らわないこと。
問題が起こっても、柳に風と受け流して「災い転じて福と為す」。
その柔らかさ、軽さこそが本当の強さです。
5、和光同塵(わこうどうじん)
自らの才能や能力をひけらかさないこと。
それは優しさであり謙虚さです。
目立とうとしないこと。
それこそが本物の自信です。
心の成長と発達課題

30〜45歳(成人前期)の発達課題は「社会適格性の獲得」(社会的役割の確立)です。
この時期は会社での役職、夫、妻、父親、母親、その他色々な社会的役割を担い、責任を持ってその役割をこなすことが求められます。
それが上手くいっている人は常識があり、分別があり、自分の生き方に自信を持っておられます。
特に40〜45歳は責任ある大人としての完成と見ることができます。
非常にしっかりとされており自分の考えをお持ちです。
スイスの心理学者ユングは40歳を「人生の正午」と言いました。
つまり40歳を境に人生の後半に入っていくということです。
現代なら平均寿命が伸びていますので45歳が「人生の正午」と見ることができるでしょう。
45歳の誕生日を迎えるとなんとなくこれから人生の後半に入っていくんだなという感じがします。
それと同時に「死」も意識し出すようになります。
残された時間は有限である。
「この人生でやり残したことはないか」
日常の忙しさに紛れてそんな問いもすぐに忘れ去られていきます。
そんなとき、子どもが不登校になったり、離婚問題が起こったり、介護の問題が浮上したり・・。
今までなら努力で解決できたのに、この時期に降りかかってくる問題は努力では解決できません。
不登校なんて本当にそうです。
子どもを学校に行かそうとすればするほど悪化します。
ここで自我は困り果てます。
自我とは自分の価値観、考え方、信念、処世術、それら全てを含んだ判断基準であり自分の司令塔です。
図で表すとこうなります。

自我の今までの考え方がこの時期の問題には通用しません。
そしてそれで良いのです。
人間として成長していくためにはここで「自我」を脱ぎ捨てる必要があるからです。
「脱自我」とは今まで自分を支え、助けになっていた価値観や考え方を脱ぎ捨てもっと寛容で自由な物の考え方に変えることです。
これが実は難事業なのです。
人は変わりたくないものです。
自分を変えることほど難しいものはありません。
でもそれができなければ人間としての次の成長はありません。
自我が降伏すると幸福の扉が開く
46歳〜60歳(成人中期) 発達課題は「人生の危機と問い」(今まで通りでいいのか?)
この時期はまさに先ほど挙げた子どもの不登校や離婚問題、親の介護問題をはじめ病気やリストラ等、とにかく今までのように努力で解決できないような問題が起こってきます。
これはある意味、次の成長つまり自己実現への最終関門であるわけです。
「頭で考えた方法で解ける問題ではないぞ!命をかけて取り組め!己を捨てて取り組め!」
実際、これらの問題を解決するには「自我の敗北」が必要です。
今までの自分の価値観、考え方、信念の無条件降伏が必要です。
わかりやすく言えば「私が間違っていました。ごめんなさい。」と心から頭を下げる心境になれた時、この解決不可能に思われた問題は自然と消えていきます。
そして真のあなた自身、あなたのあるがままの自己で生きられるようになるのです。
あるがままの自己で自由に楽しく生きること、それが自己実現です。
どうして「私が間違っていました。ごめんなさい。」と心から頭を下げる心境になれたら(心境の変化だけなのに)、それとは無関係だと思われる子どもの不登校をはじめとするそれらの問題が解決するのか。
答えはシンプルです。
それらの問題はあなたを自己実現に導くためにあったからです。
あなたの自我が敗北し、あなたが自己実現を達成した今、その問題は存在する必要はもはやありません。
だから自然に消えていくのです。
問題が消えないなら、あなたの自我はまだ敗北を認めていないし、あなたの自己実現はまだ達成されていません。
非常にわかりやすいですね。
自我は2階に、自己は1階に
ここで一つの例えを出しましょう。
人が生まれた時は「いのち」そのままです。
いのちとは愛そのもの、喜びそのものです。
だから幼心とか子ども心というのは尊いんですね。
人が「いのち」でいられる時期は12歳までです。
13歳以降は自我が目覚めて自分の考えを持つようになります。
これまでは親が守っていましたが、これ以降は自我が自分を守ります。
自我とは自分を守るための鎧のようなものです。
自分を守るとは「自分が傷つかないように。自分が損しないように。自分が得するように。」ということです。
でも自我という鎧をまとったままでは、あるがままの自己として自由に生きることはできません。
だからその鎧を脱ぐ必要があるのですが、それは非常に恥ずかしいことであり非常に怖いことです。
その恥と恐怖を乗り越えたとき、あるがままの自己で生きられるようになるのです。
それが「自分を生きる」ということです。
ここでもう一つ例えを出しましょう。
1階は「いのち」あるがままの自己です。
0歳から12歳までの幼心、子ども心です。
子どもは虫やお花やお星様やお月様とお友達になれます。
それは1階で地面(自然)と繋がっているからです。
でも子どもは少しづつ言葉を覚え知識を身につけていきます。
そして2階「せいかつ」自我を作ります。
2階は人間が生活していくために必要です。
だから人間は大人になるとみんな2階で生活するようになります。
そのうち1階があったことを忘れ、自然や他者とのつながりが感じられなくなっていきます。
孤独になるわけです。
自分と他人は違う。自分と妻、自分と夫は違う。自分と子どもは違う。
他人が損をしても痛くも痒くもない。自分だけは損をしたくない。
そんな気持ちになります。
だから後半の人生に入る段階でもう一度、1階の「いのち」(あるがままの自己)を思い出し1階に降りて地面とふれあい、自然や他者とのつながりを思い出す必要があるのです。
61歳からの自己実現
45〜60歳(成人中期)のキーワードは「死」「許す」「放す」です。
この時期に多く身内の死を経験します。
身内の「死」という現実が、自分もいずれ死ぬ存在であることを思い出させます。
「自分の人生でやり残したことはないのか?後悔はないのか?」
そんな自問自答をするのもこの時期なのです。
不登校をどうしても許せない。会社の上司や同僚が許せない。
義理の両親が許せない。夫・妻が許せない。兄弟が許せない。
許す側に立っている限り「許す」ことは出来ないものです。
許されていた自分を発見した時、人は初めて謙虚になり人に感謝できるようになります。
許してもらう側であったという180度の転換がなされた時、心から頭が下がり「私が間違っていました。ごめんなさい。」を心から言えるようになります。
その時あなたは自我の鎧を脱ぐことができたのです。
「放す」とは自分の期待や価値観を手放すことです。
問題を「なんとかしよう」というコントロールをやめることです。
これこそが自然の流れにお任せするということです。無為ですね。
言葉を変えると「私には何も出来ません」と自我が降伏を認めることです。
完全なるあきらめ、「どうにでもしてくれ」という開き直り、絶望です。
一切の望みが絶たれた時にこそ「問題解決の扉」(幸福の扉)が開かれます。
それまではその扉は見えないものです。
そのようにして2階の「せいかつ」(自我)だけで孤立し不安の中で生きてきた自分は1階の「いのち」(自己)に立ち戻ることが出来るのです。
1階の「いのち」(自己)とはあるがままの自己、自然体の自己です。
何も飾るところのない、無邪気で、明るい幼子の心、子どもの心を持った自己です。
そこに立ち戻ることが自己実現です。
自我はなくなったわけではありません。
でももう自分を支配し、コントロールしていません。
時々「危ないよ。気いつけよ。」「こっちの方が得やで」とか囁いてアドバイスしてくれる存在になっています。
まあ不安がらせるようなことも言ってきますが、自己実現した自分には以前のようにその不安に飲み込まれるということは起こりません。
<後編>はこちら
https://mbp-japan.com/hyogo/hasegawa/column/5220126/



