第47回ペアレントセミナー「子どもの思春期・親の思旬期」終了しました。<後編>
2月25日(日)は第47回ペアレントセミナー「子どもの思春期・大人の思旬期」がありました。
約20人の方が参加してくださいました。
参加者の中に嬉しい報告をしてくださる方がおられました。
「長谷川先生、引きこもっていたあの子が急に受験すると言いだしまして、大学を受験したんです。」
この方のお子さんは現役で国公立大学に進学されたんですが、急に学校に行けなくなり、それから半年ほど完全な引きこもり状態だったのが、この年末から急に別の大学を受験すると言い出され、自分から大学を受験しに行って、それ以来引きこもり状態が解消したとのことでした。
「よかったねー。お母さんも頑張ったねー。いらないことしないでよく待ったねー。」
と声をかけました。
子どもの不登校や引きこもりでお悩みの方も多くおられると思いますが、この不登校や引きこもりというのは本当にその対応が難しい。
対応で一番間違いがないのが「信じて待つ」。
うつ病者に対する対応と基本は一緒です。
励まさない。
原因に触れない。
この先どうするのかと迫らない。
普段通りに接する。
口を出さずに見守る。
本人の自然治癒力や自己成長力を信頼して待つ。
この「信じて」とか「信頼して」待つということが大事です。
そのためには「開き直る」とか、いい意味で「明らめる」心境になる必要があります。
「明らめる」というと悪いように聞こえますが、
言い換えれば「受け入れる」「許す」ということであり、
そうできるのは根っこのところで、この子は大丈夫と「信じている」からなのです。
あとは子どもが不登校のまま、引きこもりのまま、楽しく生きる。
やりたいことをやり、人生を楽しむ。
それは子どものプレッシャーや罪悪感を軽減させ、前向きな気持ちにさせます。
子どものことは子どもに任せて、自分はやりたいことをやり、生き生きと人生を充実して過ごす。
子どもが不登校のまま、引きこもりのまま幸せになる。
幸せな気持ちや楽しい気持ちというのは周りに影響を与え、
「よし!自分も幸せになるぞ」という気持ちにさせる力を持っています。
さて、今回はまずこの詩を紹介しました。
そのあと思春期の子どもの特徴とその接し方について資料をもとにお話ししました。
思春期には「反抗」や「話さなくなる」や「秘密を持つ」など、親としては心配なこともありますが、それらはすべて成長であり、自立や親離れの過程なのです。
そういう意味では、これらの特徴は自立するために必要なことと受けとめ、目くじらを立てて直そうとするのではなく、あたたかく見守る姿勢が大事です。
中に思春期であっても親に反抗もしなければ、よくしゃべるし、親子関係も良好だというケースがありますが、それはそれで全然問題ありません。そういう場合は親御さんがお子さんに対して対等かつ尊重する姿勢で関わられているお家が多く、反抗する必要がないのです。
最後7番目の「強制・管理したりせず、ゆっくりくつろげる家庭にする」のところでは長谷川家家訓を紹介しました。
「家では正しいことを言うな、楽しいこと言え。
正しいことは人を窮屈にするけど、楽しいことは人を元気にさせる。」
次に大人の思旬期についてお話ししていきました。
私は人生において一番自分らしく、自由に、楽しく生きられるのは子育てが終わった50代後半以降だと考えています。
つまり人生における「 旬 」、一番いい時を迎えるにあたり、その前段階には色々と考えさせられる問題が起こります。そしてそれらの問題を契機にして自分のあり方や生き方がゴロッと変わることにより、新しい自分としてその「人生の旬」を迎えることができるのだと考えています。
人生は大きく分けて自我未満の時代(11、2歳まで)、自我の時代(12、3歳~50代前半)、脱自我の時代(50代後半以降)と3つに分けることができます。
こちらの図をごらんください。
子どもが小学校までは親が守ります。
中学校くらいから子どもにも自我(自分で考え、判断し、自分を守る機能)が発達し、自分で自分を守ることができるようになります。
これが自立です。
そして、それでしばらく行くのですが、この自我というのは例えるなら自分を守るヨロイのようなもので、これが強固であればあるほど「本来の自分らしさ」を出せません。
自我は個人が自分の経験則から導き出し作り上げた信念・処世術であり、人工的に作り上げたものです。
それは生まれつきの「本来の自分」を抑圧する方向に働くため、そのヨロイは外敵から身を守るだけでなく、内側にある「本来の自分」を外に出し、表現することも阻んでしまっています。
自分を守るヨロイが、自分を抑圧もしているのです。
50代後半以降、自分らしく自由に楽しく生きるためにはこのヨロイである自我が障害になっているのです。
ですから、その手前40代~50代前半に、自我のヨロイを脱いでいく必要があるのです。
でも自分で作り上げた信念、処世術、価値観を手放すことは容易ではありません。
だからこそ自我では解決できない問題が起こってくるのです。
これらの問題を通して人は、はじめて自我のヨロイを脱ぎ、本来の自分を生きられるようになるのです。
つまり思旬期に起こる問題はいわば自己実現の扉でもあるわけです。
補足しておきますと、自我のヨロイを脱ぐことなく一生を「自我の時代」で過ごされる方もおられます。また自我の力がそんなに強くなく、本来の自分もそれなりに生きられていて、あえて「脱自我」する必要のない人もたくさんおられます。
自分らしく生きるということは非常に危険なリスクの高い生き方です。
そんな危険を冒して自己実現するよりも安全に生きたいと思うのは自然なことです。
そして、それは何も悪いわけではなく、それで自分の人生が満足であれば何も問題ないわけです。
ただ中には、どうしても自己実現して自分らしく生きたいと無意識で願っている人もいて、そんな人にとっては思旬期の問題はその可能性を開く扉にもなっているのです。
<後編につづく>
後編はこちら⇨http://hasegawa-mitsuru.seesaa.net/article/457578635.html