第36回 卓球もイノベーションで進歩しています
TVアサヒ2019年5月18日放送の『外国人468人が選んだ「コレで生活が変わった!」日本のスゴイ発明ベスト17』で、第1位のウォシュレットに続き、第2位に上げられたのは蚊取り線香である。ベスト17のランキングは、47国・地域で調査した結果という。
この蚊取り線香の発明には主婦のアイデアが関与している。
§1 渦巻蚊とりは誰が考えたのか
§2 蚊取り線香の発明者は伊藤幹
§3 妻のアイデアで二度助けられた上山英一郎
§4 権利化されなかった巻型蚊取り線香の基本特許
§1 渦巻蚊とりは誰が考えたのか
和歌山県有田市付近には、「金鳥」の大日本除虫菊、「キング香」のキング化学、「ライオンかとり」のライオンケミカル、「月虎かとり」の内外除虫菊など蚊取り線香のメーカが集中している。しかし、1966年(昭和41年)発刊の「除虫菊と共に」において、元有田市長森川仙太氏は、以下のように述べている:
渦巻蚊とりは誰が考えたか謎であるが恐らくこれは誰か
名もない人が考え出し、一般に伝わったものと考えている。
もし業界の中にこれを考えた人がいるとすれば必ず専売特許
か、少なくとも実用新案を取っている筈である。
一方、有田市のお隣の海南市で1911年(明治44年)に生まれ、海南市の各学校で教鞭をとっていた画家の雑賀紀光(さいかきこう)は、1958年(昭和33年)に「海南風土記」を海南新聞社から出版している。1997年(平成9年)に雑賀紀光作品刊行事業委員会が再刊した「海南風土記」の第11話の「のみとり粉」には以下のような記載がある:
http://www.naxnet.or.jp/~saikam/hudoki.htm
日本の蚊取線香の発祥は海南である。明治初年、黒江室
山の笹尾長右衛門は製蝋(せいろう)の傍、のみとり粉を
作って全国に売っていた。蝋燭(ろうそく)の方も原料の
木蝋を豊後から仕入れ、当郡製蝋組合長をつとめていた。
其の頃有田郡の製蝋組合長は上山英一郎で、組合長会議等
でよく一緒に顔を合わせ親しい間柄であったので、ノミト
リ粉の製造販売をすすめて見た。上山氏は大いに乗気にな
り有田に除虫菊栽培をはじめたのが今日の「金鳥かとり線
香のはじまりである。
岩崎辰次郎さんのお話では明治18年(1885年)、上山英一郎
が福沢諭吉の宅で米人H・E・アーモアから除虫菊の効用
を聞き種子を取よせ、黒江室山の笹尾農園に試植したと云
われているが、何れにしても笹尾さんがそのはじまりであ
ることには間違いはない。
上記の岩崎信次郎氏は、明治時代の日刊紙「大阪朝報社」の新聞記者で、『紀州人材誌』等の地誌や紀行の著者である。
§2 棒状蚊取り線香の発明者は伊藤幹
有田市が2006年(平成18年)に発行した「私たちの有田市: 先人の歩みを想い未来を拓く: 市制50周年」によると、
1886年、同市山田原出身で大日本除虫菊の創業者、上山英一郎氏が米国から人や動物に害はなく、蚊の駆除ができる成分を含む除虫菊の栽培を開始。88年には大正除虫菊創業者の御前七郎右衛門がバルカン半島産の除虫菊の種子を手に入れ、裁培に成功した。90年には、上山氏が棒状の蚊取り線香を考案し、その後、妻ゆきが渦巻き型を発案した
と記載されている。
【図1】伊藤幹が1889年(明治22年)に出願した特許第825号[ 出典:J-PlatPat]
実は日本で最初に蚊取り線香の特許を取得したのは、図1に示すように、東京府本郷区弓町2丁目13番地の伊藤幹氏である(特許第825号:1889年(明治22年)1月25日出願)。上山英一郎氏が棒状の蚊取り線香を考案したとされる1890年より、伊藤幹氏の出願日は1年早い。
特許第825号には、菊科の「ピレトリュム」族、特に「ダルマチャ、インセクト、バーダー、プラント」若しくは「ペルシャ、インセクト、パーダー 、プラント」の花を粉末にして樟脳油若くは適宜の粘料を用いて煉合し線香状の形状に造ると記載されている。
除虫菊は、胚珠の部分にピレスロイド(ピレトリン)を含むため、殺虫剤の原料に使用されるが、明細書に記載の菊科の「ピレトリュム」族とは除虫菊のことであろう。米国では当時「インセクト・フラワー」と呼ばれていたそうであり、明細書に記載の「インセクト」と符合するようである。
和歌山放送が2016年6月に制作・放送した「上山英一郎物語」では、明治21年に上山英一郎氏は、東京の旅館で、本郷の線香屋の息子の伊藤さんに会ったという話が語られた。
ラジオ番組では、伊藤さんに会って、線香に除虫菊の粉末委を混ぜれば良いことが分かったが、その入れ方が分からず、その後苦労したという話であった。
いろいろと試した結果、上山英一郎氏は仏壇線香の職人を雇い入れ、1890年に世界初の棒状蚊取り線香の製品化にこぎつけたということであるが、試行錯誤の中で、上山英一郎氏が本郷の線香屋に相談したか否かは不明である。
どちらも本郷を住所とする伊藤幹氏と、線香屋の伊藤さんが同一人物かも不明である。またなぜラジオ放送で「伊藤さん」という個人名が出てきたのかも分からない。
§3 妻のアイデアで二度助けられた上山英一郎
1890年に上山英一郎氏は棒状蚊取り線香の製品化にこぎつけたが、長さ20cmでも40分ほどで燃え尽きてしまう問題があった。又、棒状では煙の量も十分でなく、蚊取り線香の効果を発揮させるためには一度に2~3本の棒状蚊取り線香を焚かなければならなかった。
【図2】金鳥歴代社長の系譜
和歌山放送のラジオ放送「上山英一郎物語」では、図2に示す妻の上山ゆきさんに、上山英一郎氏が二度助けられたことが説明されている。主婦のアイデアの発揮である。
一度目は、ゆき夫人が、庭で蛇がとぐろを巻いているのを見て、上山英一郎氏に「線香を渦巻型にしてはどうか」とアイデアを提供したということである。
渦巻型の方が棒状よりも長い時間、煙を出すことができる。上山英一郎氏はすぐに試作を開始した。最初は、菓子の製法を真似て、渦巻型の打ち抜き木型を彫り、この木型に原料を詰めて押し出すという方法で試してみた。
しかし、木型から線香を取り外すのに手間がかかり、このままではとても量産できない新たな問題が判明した。
工夫に工夫を重ねて試作を繰り返した結果、たどり着いたのは、社員が提案した方法である。ラジオ放送では、太い棒状の線香を一定の長さで切り、木で作った芯を中心にして2本ずつまとめて巻くという方法を説明している。
しかし、乾燥方法で又困難に直面した。ここでもゆき夫人の主婦のアイデアが発揮されている。板の上で 乾かすと線香がくっつき、夏場には原料中の糊が腐敗してしまうという課題がなかなか解決できなかったのである。
ラジオ放送では、ゆき夫人が焼き魚の経験からヒントを得て、金網の上で乾燥させるというアイデアを思いついたとされる。
ゆき夫人が上山英一郎氏に提案した金網を用いるアイデアで、乾燥方法の課題も解決したとのことである。渦巻型の線香を着想してから7年もの歳月が必要であったということである。
こうして、上山英一郎氏は1902年(明治35)年に渦巻型蚊取り線香を世に売り出すことが出来たのである。
§4 権利化されなかった巻型蚊取り線香の基本特許
冒頭で元有田市長森川仙太氏の言葉を紹介したように、渦巻型蚊取り線香の基本特許は権利化されていないようである。
しかしながら、1914年(大正3年)になって、改良考案(改良発明)が上山英一郎氏ではないが、同じ地域に住む考案者から出願されている。
図3に示すような「渦巻線香」の実用新案登録を、和歌山県有田郡保田村の上山彦松氏が出願したのである。この上山彦松氏の出願は、実用新案第33357号として、権利化されている。
【図3】最初の渦巻型蚊取り線香の権利化は、渦巻型の改良考案(実用新案第33357号)[ 出典:J-PlatPat]
図3に示したように、実用新案第33357号の権利内容は、「渦巻状に構成せられる線香の中央巻始めに相嘗する部分に穿孔を施して成る渦巻線香」というものである。線香の中央巻始めに設けられた孔を利用して、渦巻線香を支持することにより、最後まで安全且つ効率的に線香を燃やすことができるというものである。
明細書中に、従来の渦巻線香は支持具から脱落したり、火が消えたりする欠点があったと記載されており、実用新案第33357号は改良考案(改良発明)であることが理解できる。なお、実用新案第33357号の基礎となる基本特許はJ-PlatPatの検索では発見できないので、上山英一郎氏は権利化をしていないようである。
大日本篤農家名鑑編纂所 編の『大日本篤農家名鑑』(明治43年)によれば、当時の和歌山県有田郡保田村(やすだむら)の篤農家には、上山英一郎氏の他に、上山儀助氏、上山吉郎氏、上山甚太郎氏、上山良蔵氏、上山市郎兵衛氏等上山姓の人物が多数いる。
図2において、上山英一郎氏の長男が第15代上山甚太郎を名乗り、三男が第16代上山甚太郎を名乗っている。更に、上山英一郎氏の妻は、上山市郎兵衛氏の養叔母であり、同族関係にあるようである。
実用新案第33357号の考案者の上山彦松氏が、この同族関係でどのように位置していたかは不明である。
上山英一郎氏は知的財産権の権利化に積極的でなかったのに対し、上山彦松氏は、1910年(明治43年)に円筒状紙袋に蚊除粉を詰めた蚊除の実用新案を出願し(実用新案第17239号)、1910年(大正4年)には除虫菊粉末製造法の特許を出願している(特許第288245号)。
なお、上山英一郎氏が米国サンフランシスコの植物輸入会社の経営者であるH.E.アーモア(Amoa)氏からビューハク(除虫菊)の種子を譲り受けたとされる1885年(明治18年)に、上山彦松氏は、早くも山彦製粉工場を設立している。
§2で紹介した御前七郎右衛門氏がバルカン半島産の除虫菊の種子を手に入れ、裁培に成功したのは、その3年後の1888年(明治21年)である。1905年(明治38年)に「紀州有田柑橘同業組合」が設立されているが、御前七郎右衛門氏は、組長に選出されている。
上山彦松氏は1918年(大正7年)には山彦除虫菊株式会社を創立しているが、御前七郎右衛門氏は、1919年(大正8年)に大正除虫菊株式会社が設立している。1919年には、大日本除虫菊の前身となる大日本除虫粉株式会社も設立されている。
1939年(昭和14年)山彦除虫菊と大正除虫菊が合併して大同除虫菊株式会社が設立されている。「大同」は、その名の示すように和歌山県有田郡の群小の町工場が寄り合って出来たものである。
山彦除虫菊株式会社の上山彦寿氏は1938年(昭和13年)5月20日に「渦巻線香打抜器」の実用新案を出願し、この年に権利化している(実用新案公告第16882号)。大同除虫菊株式会社になった後、上山彦寿氏は1943年(昭和18年)4月15日に「渦巻線香打抜機」の特許を出願し、1944年に権利化している(特許第161010号)。
元住友化学工業専務の西川虎次郎氏は、天然除虫菊の唯一の牙城が大日本除虫菊であり、最大の強敵であったので、「当然私たちは金鳥を射ち落すことに全力を集中した」と述べている(西川虎次郎著、『蚊遣り水』、医薬ジャ-ナル 1974-05、医薬ジャ-ナル社)。
http://www.knak.jp/FYI/pynamin.htm
西川虎次郎氏の「私たち」には、現在のライオンケミカルである大同除虫菊が含まれている。しかしながら、特許権の関係をどのように調整したのかわからないが、和歌山県有田市付近にある各会社が、大同小異の製品や製法をとって、協力しあっていたようである。
1888年(明治21年)に有田地方が大洪水で被害を受けたとき、上山英一郎氏は、各地から買い集めたみかんの苗を有田地方の生産者に配っている。翌年、再び大水害があったが、上山英一郎氏は大阪まで出かけ、米や食料品を購入して、有田地方の住民を救っている。
辨理士・技術コンサルタント(工学博士 IEEE Life member)鈴木壯兵衞でした。
そうべえ国際特許事務所は、発明や考案に至る前の種々の創作活動のご相談や、権利化可能な明細書の作成をお手伝いします。
http://www.soh-vehe.jp