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第36回 卓球もイノベーションで進歩しています

鈴木壯兵衞

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テーマ:発明の仕方

ピンポン(PING-PONG)は、1900年に英国で商標登録されていた(英国商標登録第233.177号)。ピンポン(卓球)の進歩は選手の技術や技能のイノベーションがあるが、その背景には1880年代の前半から始まったラケットや卓球台等の技術やデザイン等に関するイノベーションがある。

        §1 我が国の特許法制定以前に、卓球のネットの出願があった:
        §2 我が国に卓球が紹介されたのは明治35年(1902年):
        §3 我が国における卓球関連の特許と実用新案の出願状況:
        §4 意外に多い我が国における卓球関連の意匠出願:

§1 我が国の特許法制定以前に、卓球のネットの出願があった:

 卓球の発祥の地を中国と思っている人がかなりいるようである。国際卓球連盟(ITTF)博物館等の説明は、最近まで英国人デービッド・フォスター(David Foster)の1890年に登録された英国特許第11,037号を根拠に、フォスター氏が卓球の発明者であるとしていた。
 
 しかし、2016年になって、ITFF博物館の主任研究員アラン・デューク(Alan Duke)氏が1883年に英国のラルフ・スラゼンガ-・モス(Ralph Slazenger Moss)が卓球(Table Tennis)用のネットの英国特許第3156号を取得していることを発見し、The Table Tennis Collectorで報告している(Alan Duke, ”Slazenger and WHIFF-Waff”, The Table Tennis Collector No. 78, (2016))。
 
 1883年といえば我が国の特許法の制定された明治18年(1885年)より2年前である。
 
 【表1】 卓球の歴史 

 第35回の図1で説明したとおり、1852年に英国特許法の改正がされ審査主義に移行した。しかしながら、1852年改正の英国近世法では明細書の形式的要件や記載の明確性のみが審査され、発明の新規性等の特許要件は審査されていなかった。
 
             http://mbp-japan.com/aomori/soh-vehe/column/1117/

 1901年の英国控訴院のエドワード・フライ(Edward Fry)判事を委員長とするフライ委員会(The Fry Committee)の調査によれば、調査時から過去3~4年の間に登録された英国特許のうち、新規性を欠如するものが42%あるという結果になった(United Kingdom Board of Trade(1901), Report of the Committee Appointed by the Board of Trade to Inquire into the Working of the Patents Acts on Certain Specified Questions (‘The Fry Committee’), London: 英国王立出版局(HMSO))。
 
 即ち、1883年~1890年頃の英国特許は新規性が疑わしいものが多く、真の発明とは言えないものが相当あると考えられるので表1に記載したデータが真の発明者を記録しているものとはいえない可能性があることに留意すべきである。
 
 例えば、1883年のモスの特許(英国特許第3156号)は卓球のネットに関する特許であり、卓球そのものの権利を要求した特許ではないので、それ以前に卓球は知られていたことが推定できる。それにも関わらず、フォスターの英国特許第11,037号が成立してしまっていることは、英国特許庁がかなりいい加減な審査をしていたことが分かる。
 
 フライ委員会の調査結果を踏まえて、英国特許庁は1902年に英国特許法を改正し、新規性を特許要件として審査するようになった。しかし、このコラムの第1回で説明した「進歩性」の審査を英国特許庁がするようになったのは1977年であるので、真の特許性という意味では、1977年まで怪しいものが含まれていることが英国特許に対して疑われる。

       http://mbp-japan.com/aomori/soh-vehe/column/165/
 
 1907年改正の英国特許・意匠法の第2条には明細書の最後に権利範囲を記載しなさいとの規定はあるが、クレームの書き方の規定はない、1949の改正特許法の第4条に初めて、クレームのサポート要件の規定が導入されているので、英国特許法は伝統的にクレームのサポート要件を重視してこなかったようである。

 なお、表1から分かるように、1891年に英国のジョン・ジャック2世(John Jaques II)がゴッシマ(Gossima)を、卓球関連商品を指定商品として商標登録している(英国商標登録第157,615号)。

 更に、1900年の英国のハムレイ・ブラザーズ(Hamley Brothers)とジョン・ジャック3世(John Jaques III)とが共同で登録した登録商標ピンポン(PING-PONG)(英国商標登録第233.177号)や1901年の英国のスラゼンガー・アンド・サンズ(Slazenger & Sons)の登録商標ホウィヒ・ワフ(Whiff-Waff)(英国商標登録第235,131号)がある。日本が日清戦争(1894-1895年)や日露戦争(1904-1905年)を戦っていた時代に、英国では既に複数の商標登録がされ、卓球に関わる商品が競合しながら販売されていたことがわかる。
 
 1790年に連邦特許法を制定した米国は、1793年に一時無審査主義へ移行した。しかし、1836年に世界最初の専属官庁としての米国特許商標庁(USPTO)を設立し、審査主義へ戻っている。
 
 そして1891年に英国のエマ・バーカー(Emma Barker)が 図1に示したような卓球(Indoor tennis)のネットをサポートするポール(ゲーム・アタッチメント)の特許を出願し、米国特許第454700号を取得している。

【図1】 米国特許第454700号

§2 我が国に卓球が紹介されたのは明治35年(1902年):

 一方、我が国では、明治35年(1902年)2~6月に欧米体育視察をした東京高等師範学校教授の坪井玄道先生が、ロンドンで見つけたルールブックと用具一式を日本に持ち込んだ。
 
 坪井先生は、東京本郷の運動具店「美満津商店」に造らせ、11月に販売させた。このため、坪井先生が、日本へ卓球を紹介したと言われている。しかし、明治32年(1899年)や明治33年(1900年)に、既に日本に卓球が伝わっていたという説等の諸説があるようである。

 例えば、山田耕筰の著述の中に、彼が13歳の頃 (1899年)、彼の姉(山田恒)の夫の英国人の宣教師エドワード・ガントレット(Edward Gauntlett)(第六高等学校教授)の紹介によりピンポンをして楽しんだ旨の記載があるとのことである(岡山市門田屋敷の三友寺の「ピンポン伝来の地岡山」の石碑に刻まれた由来の記述参照。)。ガントレット教授の宣教師としての来日は1890年である。
 
  明治15年創業の美満津商店は正式には「体操器械及び動物学標本製造販売元美満津商店」といい、学校に動物学標本を販売することもしていた。美満津商店は明治時代から戦前期までの体育・スポーツ用品業界の中心的役割を果たしていたようである。

 美満津商店の店主の伊東卓夫氏は、明治35年11月に38頁の卓球書「ピンポン」を出版元伊東卓夫で出版している。更に、明治36年(1903年)に大阪で開催された第5回内国勧業博覧会で卓球の模範試合を初公開して、日本に卓球熱を高めさせる貢献をしている。 
 

§3 我が国における卓球関連の特許と実用新案の出願状況:

 日本の卓球関連の特許をJ-PlatPatを用いてキーワード検索をすると66件ヒットした。66件ヒットした内には中国から日本に出願された、卓球のラケットの「グリップ」に係る特許第2603604号が含まれている。
 
 2014年の中国特許庁に出願された特許の出願件数92.8万件である。その内日本から中国特許庁への特許出願件数は約4万件で、中国からの日本特許庁への特許出願数は2600件であるので、中国から日本への特許出願は、日本から中国への特許出願の6.4%しかない。

 中国からの特許出願数の日本の全出願件数に対する比率は0.8%以下という状況のなかで、中国から出願された特許が66件中に含まれていることは、中国人の卓球に関する関心がうかがえる。

 J-PlatPat で検索した66件のうち、約半分の30件が卓球のラケットに関係した特許である。次に多いのが卓球台関係の特許で、19件の特許がヒットしている。

 このため、日本の卓球のラケット関連の特許を、実用新案を含めてJ-PlatPatを用いて分類検索すると494件がヒットした。卓球のラケットの実用新案が大正10年(1921年)ころからから出願され始めていることがわかる。坪井先生が我が国に卓球を紹介してから19年を要している。ヒットした494件の内、比較的出願日の古い特許を示すと表2のようになるが、すべて実用新案である。
  
 【表2】古い日本の卓球のラケットに関係する実用新案

 日本の卓球のラケット関連の特許で一番古いものは、図2に示した戦後の昭和22年(1947年)6月14日出願の「ピンポンパット製作法」に係る特許発明明細書176984号である。 
 
 【図2】日本で最も古いと思われる卓球のラケットの特許発明明細書176984号

§4 意外に多い我が国における卓球関連の意匠出願:

 既にこのコラムの第16回の図4で示したとおり、現在の我が国の意匠出願の件数は5極特許庁の中で第4位に低迷しているが卓球関連の意匠出願の件数をJ-PlatPat で検索すると、100件を超え以外に多い。これは第16回の図4から分かるとおり、1960~1980年代に我が国が世界第1位の意匠出願件数を誇っていたことを反映していると思われる。

             http://mbp-japan.com/aomori/soh-vehe/column/900/

 1973年出願の7件、1974年出願の4件、1977年出願の5件、1983年出願の5件の意匠等を含め、平成16年(2004年)以前には合計106件が、卓球関連の意匠として登録されている。しかし、第16回で示した2000年以降の意匠出願件数の停滞の影響により、我が国の卓球関連の意匠出願件数も低調の傾向になっている。平成17年(2005年)以降において、意匠分類(Dターム)E3-33で検索できる意匠の登録件数は10件である。

 J-PlatPat で検索した結果、卓球に関連する最も古い意匠は、昭和5年(1930年)7月3日出願の『木埋模様の色彩を有する「ピンポンパット」』に係る意匠登録第48365号である。しかし、意匠登録第48365号は、目次のみが公開されており、具体的な意匠の図面は不明である。

 以下の図4は、J-PlatPat で検索してヒットした116件中の2番目に古い昭和14年(1939年)2月22日出願の『「ピンポンパット」の形状及び模様の結合』に係る意匠登録第82428号である。

 【図4】昭和14年出願の意匠登録第82428号

     辨理士・技術コンサルタント(工学博士 IEEE Life member)鈴木壯兵衞でした。
     そうべえ国際特許事務所ホームページ http://www.soh-vehe.jp

 

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鈴木壯兵衞(弁理士)

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外国出願を含み、東京で1000件以上の特許出願したグローバルな実績を生かし、出願を支援。最先端の研究者であった技術的理解力をベースとし、国際的な特許出願や商標出願等ができるように中小企業等を支援する。

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