第67回 日本人がマスクを着用するようになった経緯と、ファクターXに占める勤勉革命からの歴史の役割
米国の大統領選でドナルド・トランプ(Donald Trump)氏は「メキシコ国境に壁を建設する」と宣言し、内に籠もろうとしているようだ。徳川幕府が採用した保護貿易政策にも「国境に壁を建設する」に類似した意図が読めるが、保護貿易政策の意味と特許の重要性について検討してみる。
徳川幕府の保護貿易政策の裏には、カトリックとプロテスタントの争いがあるが、大坂冬の陣も、カトリックとプロテスタントの争いであった。徳川幕府の公式記録『徳川実紀』によれば、大坂冬の陣で大阪城の櫓に砲弾を命中させたのは近江国友鍛冶の指導者稲富とされているので、日本製の大筒の砲弾が命中したと思われるが、プロテスタントの技術がサポートしていたようである。
§1 オイゲン・ディーゼルの「技術論」
§2 寛永元年(1624年)が我が国に持つ意味
§3 欧州諸国の植民地政策
§4 なぜ日本が欧州の植民地にならなかったのか
§5 産業革命の発明の背景にカトリックとプロテスタントの争い
§6 大阪冬の陣の明暗を分けた技術力の差
§7 炸裂弾が用いられたのは1824年
§1 オイゲン・ディーゼルの「技術論」
1893年にディーゼルエンジンの特許(ドイツ特許第67207号) を取得したルドルフ・クリスチアン・カール・ディーゼル(Rudolf Christian Karl Diesel)の息子であるオイゲン・ディーゼル(Eugen Diesel)はその著書「技術論(Das Phenomen der Technik)」において以下のように述べている:
1624年は近代の最重要の日付けの一つである。発明的人間の仕事は保護せられ始め、古代文化の地盤の上には、極めて迅速に、謂わば垂直に、技術の世界が築き上げられた。…(中略)… 特許がなかったならば、言語に絶するほど複雑化する近代文明の組織も生まれ得なかったであろう。何となれば理念の保護だけが無数の理念の木の速い成長を可能にしたのである(オイゲン・ディーゼル著、大沢峯雄訳、『技術論』、天然社、昭和18年、p283)
オイゲン・ディーゼルの指摘した1624年は、今日まで引き続き施行されている成文の特許法としては世界最古の英国専売条例が制定された年である。その1年前の1623年には、「論争のバイブル」と呼ばれたガリレオ・ガリレイ(Galileo Galilei)の著書『イル・サジアトーレ』 (『偽金鑑識官』または『黄金計量者』)がイタリアで出版されている。
以下の図1では英国専売条例を「英国中世法」として記載している。図1から分かるように、英国中世法に続いて1790年に米国特許法が生まれ、1791年にフランス特許法が生まれている。
アイザック・ニュートン(Isaac Newton)が英国(イングランド)のリンカンシャー州に生まれたのが1642年であるが、英国専売条例が制定されて109年後の1733年には、産業革命のきっかけとなったとされるジョン・ケイ(John Kay)の飛び杼が発明されている(英国特許第542号)。更に、1769年にはジェームス・ワット(James Watt)が蒸気機関を発明している(英国特許第913号)。
1757年にジェームズ・ワットが英国のグラスゴー大学で実験器具製造・修理店を開業することを手助けしたアダムスミス(Adam Smith)が「国富論(An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations)」を発行したのが1776年である。1624年の英国中世法を契機として、オイゲン・ディーゼルがいう「言語に絶するほど複雑化する近代文明の組織」が生まれることになったのである。
【図1】世界の特許法の歴史
§2 寛永元年(1624年)が我が国に持つ意味:
徳川家光が征夷大将軍に任命された元和9年(1623年)の翌年である寛永元年(1624年)に、徳川幕府はスペイン船の来航を禁止し、我が国は、カトリック国であるスペインとの国交を断絶している。マニラから日本にやって来たスペインの商船に宣教師が隠れて乗っていたことが分かったのが理由とされている。なお、家光に政権移譲した後も徳川秀忠が大御所として寛永9年(1632年)まで政治的実権を掌握していた。
「鎖国」の語は、1690年に来日したオランダ東インド会社のドイツ人医師エンゲルベルト・ケンペル(Engelbert Kaempfer)の『日本誌(The History of Japan)』を翻訳した蘭学者志筑(しづき)忠雄が、1801年に「……おのれが仮に設けたる」として、『日本誌』の一部(付録論文第6章)を『鎖国論』と名づけたのが最初と言われている。
ケンペルは付録論文第6章の題名を「今日のように日本国を閉鎖してその国民が国内においても国外においても外国と通商を営むことを許さないことが同国にとって利益ありや否やについての研究」としており、鎖国論という題名を使っていないので「鎖国」は志筑忠雄の造語である。
江戸時代には、以下の4つの窓口が外国に向けて開けられており、「鎖国」という表現は正しくないとする考え方が現在の歴史研究家の主流となりつつある。平成7年以降の中学や高校の歴史教科書では、「鎖国」と記すのを避けたものや、「いわゆる鎖国」「鎖国の完成」等の表記をしたものが増えてきているようである。マシュー・カルブレイス・ペリー(Matthew Calbraith Perry)の黒船は米国との貿易を要求して我が国に来航したのであり、米国以外の諸外国に対する「開国」を要求したのではない。
即ち、江戸時代の4口(よんくち)制限貿易政策では、以下の4つの窓口で海外貿易の管理をし、徳川幕府がその利益を独占しようと意図していた:
(a) 長崎口(長崎会所):オランダと中国
(b) 対馬口(対馬藩):朝鮮
(c) 薩摩口(薩摩藩):琉球(タイ、ベトナム等の東南アジア及び中国)
(d) 蝦夷口(松前藩):アイヌ(ロシア及び中国)
ただし、オランダと中国の船の入港を長崎のみに限定したのは1635年である。1636年には、貿易に関係のないポルトガル人287人がマカオへ追放されている。1639年には、ポルトガル船の入港が禁止されている。
1668年にはオランダへの銀輸出が禁られ、1672年の貨物市法で金銀の流出の抑制が図られ、更に1685年の貿易規定(定高貿易法)で1年の輸入額が制限される。そして、7代将軍徳川家継の世となる1715年の正徳新令(海舶互市新例)では、銅の輸出も制限され物々交換取引が原則となった。
三井高利が江戸と京都に越後屋呉服店を開いた1673年に、英国船リターン号が長崎に来航し、英国東インド会社が貿易の再開を求めた。しかし、徳川家綱(4代将軍)は、国王チャールズ2世((Charles II)がカトリック国であるポルトガルの王女キャサリン・オブ・ブラガンザ(Catherine of Braganza)と結婚したことを理由に、要求を拒否した。
その後180年以上、オランダ以外の欧州諸国との貿易が途絶えることとなるが、「鎖国」をしたのではなく、カトリック国との貿易を拒否したのである。村松剛先生は「正確に言うと鎖国というよりは、キリスト教社会と日本は縁を切ったのです。」と言われている(村松剛著、『歴史に学ぶ』、日本への回帰第17集、(社)国民文化研究会、(1982年)、p.147)
朝鮮・琉球とは将軍の代替わりごとに使節を迎えていた。蝦夷口からは木材や海産物などが輸入され、中国からは生糸や薬品が輸入されていた。大坂では、西洋雑貨が「舶来物」として販売されていたようである。
英国ウスターシャ―(Worcestershire)州ウスターのジョン・ウィーリー・リー(John Wheeley Lea) と ウィリアム・ヘンリー・ペリンス(William Henry Perrins)が1830年にレシピを発明したとされるウスターソースも江戸時代の末期には日本に到来していたと推定されている。ペリーが来日した安政元年(1854年)には、キッコーマンの前身となる醤油醸造家が製造を試みていたとの記録もあるようである。江戸時代に醤油は長崎口からオランダを介してヨーロッパに輸出されていたので、ウスターソースも長崎口から入って来たのであろうか。
カトリック国との貿易を拒否する保護貿易体制を採用したが、その後我が国は世界に誇れる文化や産業を育成し始めたという点で、英国専売条例が制定された1624年が、我が国に対し重要な意味を持つ。例えば、1624年は、江戸歌舞伎の初代猿若中村勘三郎が徳川幕府の許可を得て猿若座(後の中村座)を現在の京橋付近に開場した年でもある。
徳川家康の命で1590年に大久保藤五郎が「小石川上水」を造っている。1629年頃には神田上水が完成し、1653年には玉川上水が完成している(徳川恒孝著、『江戸の遺伝子』、PHP研究所、p.120-124)。ジョン・ブルームフィールド・ジャービス(John Bloomfield Jervis)がニューヨークに新鮮な水を供給する最初の水路であるクロトン導水路を完成させたのは1842年であるのでニューヨークより約200年早い。「鎖国のせいで世界から遅れた」という議論は見直す必要がある。
米国のダートマス( Dartmouth)大学のノエル・ペリン(Noel Perrin)教授は、イギリス人ピーター・マンディー (Peter Mundy)が、1637年に、中国のマカオに旅行したとき日本の大坂商人一行と顔を合わせ、日本人が懐(ふところ)から小さくたたんだティッシュのような紙でスマートに鼻をかみ、その紙を「使い捨て」で処分した姿を見て、日本の文化の高さに感心し驚いていたことを紹介している(ノエル ペリン著、川勝 平太訳、『鉄砲を捨てた日本人―日本史に学ぶ軍縮』、中公文庫、p.38-39) 。
徳川家康は、足利学校の三要元佶に命じて1599年に活字印刷による『孔子家語』『六韜』『三略』を出版させている。その後も、家康は出版事業を奨励し、江戸時代における識字率を世界一にしたことに貢献している(徳川恒孝著、『江戸の遺伝子』、PHP研究所、p.78-81)。幕末期の武士階級はほぼ100%が読み書きができ、庶民層男子で49~54%であったとされるが、同時代のロンドンの庶民層の識字率は10%に満たなかったと言われている(大川栄輔、田中優子著、『大江戸ボランティア事情』、講談社、1999年、p.66)。
ノエル・ペリン教授は、「日本は原料生産国であったばかりではない。日本は当時も優れた工業国であった。イエズス会の宣教師は、当時、日本には紙の種類がヨーロッパの10倍はあろうと推定している」と『鉄砲を捨てた日本人―日本史に学ぶ軍縮』の中で記載している(ノエル ペリン著、川勝 平太訳、『鉄砲を捨てた日本人―日本史に学ぶ軍縮』、中公文庫、p.38) 。
しかし、我が国の特許法の制定は英国より260年ほど遅れた。カリフォルニア大学のケネス・ポメランツ(Kenneth L. Pomeranz)教授は、日本の畿内・関東等の経済発展や生活水準は、18世紀半ばまでイギリス等の西ヨーロッパと変わらなかったと述べている(K・ポメランツ著、 川北稔訳、『大分岐―中国、ヨーロッパ、そして近代世界経済の形成』、名古屋大学出版会、2015年、p.50, 56, 58, 218)。18世紀半ばに発生したイギリスの産業革命以降において、イギリスとの技術の進歩の速度に差が発生したのである。
§3 欧州諸国の植民地政策
ポルトガル王国が成立したのは1139年で、スペイン王国誕生の1469年よりも早い。1492年にイタリアのクリストファー・コロンブス(Cristoforo Colombo)がバハマ諸島グァナハニ島に到達すると、1498年にはポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)により、インド航路が開拓されている。
そして、1500年にポルトガルのペドロ・アルヴァレス・カブラル(Pedro Alvares Cabral)がブラジルを発見すると、1521年にはアステカ文明がスペイン人エルナン・コルテス・デ・モンロイ・イ・ピサロ(Hernan Cortes de Monroy y Pizarro) によって滅ぼされている。この1521年には、フェルディナンド・マゼラン(Ferdinand Magellan)のスペイン艦隊が世界一周の途上フィリピンのスルアン島に上陸したが、マクタン島で部族長ラプ=ラプ(Lapu-Lapu)に殺害されるという事件が発生している。
1525年には、エルナン・コルテスの右腕であるスペインのペドロ・デ・アルバラード(Pedro de Alvarado y Contreras)がマヤ系諸王国(マヤ文明)の征服を開始し、1533年にはインカ帝国がスペイン人フランシスコ・ピサロ(Francisco Pizarro)によって滅ぼされている。
【図2】東南アジアの植民地
図2において、緑色で示したベトナム、ラオス、カンボジアがフランス領になるのは、ナポレオン3世(Napoleon III)の遠征軍が1858年にベトナム中部のダナンに上陸したとき以降であり比較的新しい。1841-1842年のアヘン戦争で中国が弱体化した時期以降になる。フランスのインドシナの植民地支配の完成は1897年である。
しかしながら、表1に示すように、1565年にはスペインのミゲル・ロペス・デ・レガスピ(Miguel Lopez de Legazpi)がフィリピンのセブ島に植民基地を作り、初代フィリピン総督となっている。そして、1623年にはオランダ(蘭国)がインドネシアのアンボイナ島の権益を独占している。
1623年のアンボイナ事件でイギリス(英国)は東南アジアから撤退しているが、1757年になると英国東インド会社がブラッシーの戦いでインドのベンガル太守軍を破り、さらに1765に英国東インド会社がインドのディーワーニーを獲得し貿易商社から植民地統合機関への変質を見せている。
【表1】16世紀後半から我が国が制限貿易政策に至るまでの歴史年表
図2には示されていないが1841年のアヘン戦争を契機に中国も半植民地化されているので、東南アジア、東アジアで植民地化されていないのはタイ(シャム)と日本だけである。図2において緑色で示したラオス、カンボジアはフランス領になる前はタイの支配下にあった。
極東国際軍事裁判(東京裁判)では、図2に示したフィリピンとインドの判事を加えて11人の判事が任命された。その中で、オランダのベルナルト・ヴィクトール・アロイジウス・レーリンク(Bernard Victor Aloysius Reling)判事は
「17世紀の初頭という時代は、ちょうど西欧諸国がアジアの征服を行っていて、西欧ではヒーローといわれた人たちがアジアに帝国をつくろうと努力していた最中であり、それなのに、その当時の理想主義者であるグロティウスの見解を、アジア人を被告とする裁判で引用することは正しいとは思われません」
と述べたとされる(佐藤和男著、『講演録 レーリンク・オランダ代表判事の東京裁判批判』、明治聖徳記念学会紀要、復刊第18号、p19-20)。
マヤ文明やインカ帝国が簡単にスペイン人によって滅ぼされてしまったのに、アジアの中で、なぜタイと日本が植民地化されなかったのであろうか。
§4 なぜ日本が欧州の植民地にならなかったのか
アステカ文明が栄えていたメキシコは、1521年スペイン人コルテスに侵略されたことは上述したとおりである。メキシコ人は固有の文化・文明をスペイン人に破壊されてしまったのである。
トランプ氏が「メキシコとの国境に壁を建設する」と宣言したのは、時代を溯ればスペインとの間に「壁を建設する」ことになろう。徳川家光はスペイン人の侵略を回避するために、1624年にスペイン船の来港を禁止したのである。しかし、国交を断絶しただけでは侵略や植民地化を防ぐことはできない。
表1に示すように、徳川家光がスペイン船の来航を禁止する1年前の1623年に英国東インド会社の平戸商館が閉鎖され、英国東インド会社は日本から撤退している。インドネシアのアンボイナ島でオランダに商館員全員が殺された事件の影響もあるが、英国東インド会社の日本における営業成績が悪いことも撤退の理由である。
当時日本は世界最高品質の鉄を安価に製造できる技術を有していたので、英国東インド会社の鉄が日本ではさっぱり売れず営業成績不振だったのである。英国東インド会社の報告書に「英国の鉄は日本の鉄に太刀打ちできない」と書かれていたそうである。
日本の鉄の技術は鉄砲の生産に用いられ、当時の日本は世界最多の鉄砲保有国であった。表1に示したとおり、1543年にポルトガル人により種子島に鉄砲が伝来したとされる。このとき、領主の種子島時尭(ときたか)がリバース・エンジニアリングによる模倣を命じ、翌年には数十挺の鉄砲が製造されている。
実は、1494年にローマ教皇アレクサンドル6世が定めたトルデシリャス条約で大西洋上の西経46度の東をポルトガル、西をスペインの領土とされ、1529年のサラゴサ条約で太平洋上の東経144度30分の東がスペイン、西がポルトガルの領土とされたので、1543年に日本はポルトガル領になっても不思議はなかったのである。
鉄砲史を専門とされている国立歴史民俗博物館の宇田川武久先生によれば、1543年以前を含め、実際にはいろいろな場所に様々な形状の鉄炮がいろいろなルートで、この頃鉄砲が伝来していたようである(宇田川武久著、『鉄砲伝来』、中公新書、P.1-15,156-170)。
例えば、秋田倩季(よしすえ)が中心になって1789年(寛政元年)頃から編された『日之本文書』には、1543年よりも遙か以前に、中国の揚子江の下流側に位置する揚州から入手した鉄砲を、十三湊を拠点としていた安東一族の船が所持していたことがわかる。安東一族は1274年から揚州の総督を3年務めたマルコ・ポーロ(Marco Polo 1254-1324)と交流があったとされる。
ノエル・ペリン教授はインドや中国はもっと早く鉄砲が伝来していたが、自国で鉄砲が量産できたのはわが国だけであると述べているが(ノエル ペリン著、川勝 平太訳、『鉄砲を捨てた日本人―日本史に学ぶ軍縮』、中公文庫、p35) 、宇田川先生は日本の火縄銃はヨーロッパのそれではなく、既に東南アジアでは火縄銃が使用されていたと指摘している(宇田川武久著、『鉄砲伝来』、中公新書、P.14-15)。
いずれにせよ、ノエル・ペリン教授が、「少なくとも鉄砲の絶対数では、十六世紀末の日本は、まちがいなく世界のどの国よりも大量にもっていた。」と述べ、英国全体の軍隊の銃の数よりも肥前国竜造寺氏の銃の数の方が5割も多いことを指摘していることには留意が必要であろう(ノエル ペリン著、川勝 平太訳、『鉄砲を捨てた日本人―日本史に学ぶ軍縮』、中公文庫、p63,160-162) 。
世界の半数の鉄砲が日本で生産されていたといわれ、鉄砲の輸出もされていた。日本の鉄砲は命中精度が高く、1654年に満州北部で中国(清)とロシアのコサック兵が対戦した際には、中国から派遣を要請された100名の朝鮮の小銃隊が、日本の鉄砲を用いてロシア軍を敗走させ、1658年には150名の小銃隊が日本の鉄砲でロシア軍を壊滅させている。
関が原の戦いの頃の鉄砲が、明治維新における争いにも改造されて使われたが、250年後の威力の強い火薬を用いても爆発しない強度を有する鉄の製造技術が17世紀の初頭の日本にあったそうである。
英国東インド会社の平戸商館長(カピタン)のリチャード・コックス(Richard Cocks)が日本の鉄は品質が良く安価であるとして、1616年に36tの鉄を買い付けている。
1603年の徳川家康が征夷大将軍に就任し徳川幕府を開いた年に、スペインが日本人傭兵400人を用いてフィリピンにおける華人の暴動を抑圧した事件があり、日本人傭兵の強いことはスペインに知られており、日本に迂闊には手をだせない状況にあったのである(藤木久志著、『雑兵たちの戦場』、朝日新聞社、p.266-267)。
1579年~1582年まで日本に滞在したアレッサンドロ・ヴァリニャーノ(Alessandro Valignano)司祭は、イエズス会総長に提出する「第1次日本巡察行報告書」の中で以下のように述べている(松田毅一著、『秀吉の南蛮外交-サン・フェリーペ号事件-』、新人物往来社、p. 39):
日本は、外国人が支配してゆく基礎を作れるような国家ではない。日本人はそれを堪え忍ぶほど無気力でもないし無知でもなければ、スペイン国王は日本において、いかなる支配権も管轄権も有していないし、将来とも持つことはできない
1620年には蘭国と英国の防御艦隊10隻のうち8隻が2度に分けて平戸を母港として展開している。そして、1621年になると、徳川幕府に、蘭英両国からスペイン・ポルトガルとの戦争に2000~3000名の傭兵派遣が要請されているが、徳川幕府は、この要求を断っている(藤木久志著、『雑兵たちの戦場』、朝日新聞社、p.271-272)。
タイにおいて山田長政がスペイン艦隊の1621年及び1624年の二度にわたる侵攻を日本人傭兵を用いて退け、その功績で1621年には国王から官位制度の6階級の下から3番目のオーククンに任ぜられ、更に1626年にはアユタヤ王朝の最高位オークヤー・セーナーピムックを授けられている。「セーナーピムック」とは「戦いの神」「軍神」という尊称である(小和田哲郎著、『山田長政 知られざる実像』、講談社、p.104,125-127)。
1662年2月には鄭成功(ていせいこう)が日本式鉄砲隊で、台湾からオランダ人を追い出し最初の漢民族政権である鄭氏政権を台湾に樹立している。「鉄人」と呼ばれ恐れられた日本武士の雇兵が鄭成功軍に馳せ参じたという。台湾の鄭成功文物館には日本武士の甲冑が展示されている。
鄭成功は福建省人の海商・鄭芝竜を父、平戸藩士・田川七左衛門の娘・田川マツを母とする日中混血児で幼名を田川福松(シナ名は鄭森)という(菊池寛著、『海外に勇飛した人々』、新潮社、p142-152)。
本コラムのタイトルである1624年生まれの鄭成功は、台湾では孫文、蒋介石とならぶ「三人の国神」の一人として尊敬されている。鄭成功を名乗った翌年の1646年に、鄭成功は徳川幕府に明王朝を再興する「反清復明運動」の援軍を要請しているが、将軍徳川家光はそれを拒否している。鄭成功は鄭氏政権の樹立後に、さらにフィリピンのルソン島を攻撃する計画をたてたが1662年6月に台湾で病死し、フィリピンと台湾の緊張した関係が緩和された。
一方、このような歴史の流れのなかで、徳川幕府は、スペイン及びポルトガルのカトリック旧教国と英国及びオランダのプロテスタント新教国との戦いに巻き込まれるのを回避するため、4口制限貿易という保護貿易体制を採用し、海外との貿易を管理していたのである。
英国騎士団勲章 のひとつであるバス(the Bath)勲章の受章者でもあり、海軍戦略家、更には歴史家としても有名な英国海軍のジョージ・アレクサンダー・バラード(George Alexander Ballard)大将は、中将時代の1921年に、英国で出版された本の中で、以下の様に述べている(Vice-Admiral G.A.Ballard, ”The Influence of the See on the Political History of Japan”,John Murray, London 1921):
歐州諸國民の見地より云えば、爾来三百年間、日本が鎖國主義を取つたのは勿怪の幸福と云うべきである。若し日本が右の經驗を利用して、盛に大艦巨舶を建造し、歐州の諸國と交通接觸したらんには、西班牙、葡萄牙、和蘭等の植民地は決して彼等の領有に歸せなかつたであらう。否な印度に於ける英國の支配すらも、頗る疑問とせざるを得ないのである。
併し幸にして、右に想像するが如き事實は起らず、日本は三百年の間、武陵桃源に怪夢を貪り、歐州諸國は其飽くなき貪慾を擅にすることが出來た。
(バラード中将著、三上正毅訳、『日本の政史に及ぼせる海の影響』、日本読書協会甲種会報第19号、(1922年)、p24-25)
ここで、「右の經驗を利用して」とは秀吉の朝鮮出兵のことを指している。バラード大将は、「もし、日本が、秀吉の朝鮮出兵の経験によって、盛んに大艦や巨船を建造し、ヨーロッパ諸国と交通接触することになったのであれば、スペイン、ポルトガル、オランダなどの植民地は、あげて皆日本のものとなっていたであろう」から「欧州諸国民の立場からすれば、徳川幕府が300年間日本人の海外発展を禁じてしまったのは、もっけ(勿怪)の幸いである」と指摘しているのである。
厭離穢土欣求浄土(おんりえど、ごんぐじょうど)は、源信の著した「往生要集」の中の言葉である。桶狭間の戦いで窮地に立って、自害しようとした徳川家康を、了伝和尚と共に留めたとき、登誉天室上人が問答で諭した際の言葉とされ、徳川家康は生涯その旗印(馬印)に掲げていた。
世界最大の鉄砲保有国日本が、バラード大将の言われるように東南アジアを侵略する選択もあったはずである。確かに、貿易の重要性に気づいていた織田信長は明国侵攻を発案していた。その後継者である豊臣秀吉も信長の意思を汲み明国征服を試みるが、朝鮮半島で苦戦を強いられ撤退することになった。織田信長や豊臣秀吉には日本人の海外発展の意思が認められる。
登誉上人が問答で諭した、「戦国の世は、誰もが自己の欲望のために戦いをしているから、国土が穢れきっている。最終的に天下の父母となって、苦悩の多い穢れたこの世を厭(いと)って離れたいと願うことにより、心から欣(よろこ)んで、万民の苦しみを無くして平和な極楽浄土をねがい求めるならば、必ず仏の加護を得て事を成すであろう」という浄土宗の教えは、織田信長や豊臣秀吉とは異なる、その後の徳川幕府の外交政策に反映されていると思われる。
三河国(岡崎)にある登誉上人の大樹寺には、第14代将軍までの徳川家の位牌が納められているとともに松平家8代の墓がある。大樹寺は文明7年(1475年)に松平家4代目親忠により創建されたが、「大樹」とは征夷大将軍の唐名で松平家から将軍が誕生することが祈願されていた。松平家3代目信光が大樹寺に納めた願文には「天下泰平 国家安穏」と記載されているという。平和な極楽浄土をねがい求める心は松平家の心であったのである。
§5 産業革命の発明の背景にカトリックとプロテスタントの争い
表2に示すように、英国の産業革命の中心をなした1769年のワットの蒸気機関は、英国のトーマス・ニューコメン(Thomas Newcomen)の蒸気機関を修理しているときに生まれたものである。ニューコメンは、1712年に蒸気機関を発明したが、1698年の英国のトマス・セイヴァリ(Thomas Savery)の蒸気機関の特許(英国特許第356号)の存在のために、特許取得出来なかったといわれている。
【表2】蒸気機関の発明の歴史
セーヴァリは、1695年にフランスから英国に移住したドニ・パパン(Denis Papin)が発明した真空エンジンがシリンダの直接加熱方式であったが、シリンダとボイラを分離する方式を発明したのである。
実は宗教戦争(1562-1588)の結果、1593年にフランス王アンリ4世(Henri IV)がカトリックに改宗したため、フランスのプロテスタントであるユグノーが1680年以降の 20 年間で 20 万人が海外に脱出(亡命)した。パパンは英国に脱出したユグノーの一人である。
パパンは、オランダ人クリスティアーン・ホイヘンス(Christiaan Huygens)の弟子である。ホイヘンスは1680年に火薬をシリンダ中で燃焼させて動力を発生する往復機関(鉄砲エンジン)を発明しているが、1675年にホイヘンスの紹介で英国に渡り、1676年からロンドン王立協会でロバート・ボイル(Robert Boyle)の助手に採用され、1679年に圧力鍋を発明している。
圧力鍋の発明から、火薬の代わりに蒸気を用いる真空エンジンの発明にまで発展するのは、パパンが1687年にドイツのマールブルク(Marburg)大学の数学教授をしているときである。マールブルク大学は初のプロテスタントの大学である。
ユグノーの多くは、貴金属製造工、職布工等の熟練職人や専門家集団である。17世紀の英国は大陸と比較して産業的に遅れていたので、ユグノーの亡命を積極的に受け入れ産業革命の機動力としたのである。
§6 大阪冬の陣の明暗を分けた技術力の差
1614年の大坂冬の陣、1615年の夏の陣は、カトリック旧教国とプロテスタント新教国との戦いであった。カトリック旧教国は豊臣方に保護され、プロテスタント新教国は家康に保護された。冬の陣の背景には、豊臣秀頼がカトリックに便宜をはかり、スペインの支援を受ける事態を徳川家康が恐れたことにあるとする説もある(村松剛著、『歴史に学ぶ』、日本への回帰第17集、(社)国民文化研究会、(1982年)、p.146-147)。
従来大砲は青銅製であったが、イングランドのサセックス(Sussex)のラルフ・ホッジ(Ralph Hodge)が鋳造による鉄製の大砲の製造に1543年に成功している。当時は未だ青銅製の方が圧倒的に性能が良かったという説もあるが、鉄製の大砲の方が熱に強く、安価であるため、その後、英国の鉄製の大砲が世界を制することになる。
1574年にエリザベス1世(Elizabeth I)がプロテスタント圏以外の国への無差別の鉄製大砲の輸出禁止令を出していたので、オランダと英国のみが性能の良い大砲が製造できていた。
そして、1624年に英国中世法が制定される以前ではあるが、オランダではこの頃、大砲の模倣を防止するために、何等かの特許制度ができていたようである。例えば、1608年にはハンス・リッペルスハイ(Hans Lippershey)がオランダで望遠鏡の特許を申請している。
1588年のドーバー海峡アルマダ(Armada)の海戦では、スペイン軍は重量の大きい砲弾を放つが短射程のカノン(cannon)砲や全カルバリン(culverin)砲を装備し、英国軍は軽量弾を放つ長射程の半カルバリン砲を装備していた。英国軍はそれまで世界に覇権を握っていたスペインの無敵艦隊を撃退したのである。三浦按針は、アルマダの海戦に英国の補給船の船長として参戦していたといわれる。
大坂冬の陣で徳川家康は、300門以上という大量の大砲を随所の陣地に配備したという。英国からはカルバリン砲4門、セーカー(Saker)砲1門、石火矢(いしびや)と称される新式フランキ(Franco)砲12門を購入していた。カルバリン砲は鋼鉄製で口径16.2cm、砲身長4.8mを超え、最大射程距離6300m、有効射程距離1800mを誇る中口径砲である。さらに、絵図により玉の重さを約15Kg以上の大きなものにして特注したオランダ製の新式フランキ砲12門が、冬の陣の1週間前に到着している。
セーカー砲は、カルバリン砲以上の射程距離といわれている。徳川家康は、1612年にカルバリン砲を参考に全長3.13m、口径9.3cm、弾の重さ約4.5Kgの大砲を堺の芝辻理右衛門に依頼し、これを大坂冬の陣の戦闘に活用したという。さらに、関が原の戦いの直後の1604年から1609年にかけて、近江国友鍛冶の指導者稲富祐直(稲富一夢)を介して国友の鉄砲鍛冶69人に1貫目(3.75Kg)玉の大砲2門、100匁(375g)~300匁(1.12Kg)玉の大筒(大鉄砲)33挺、20匁(75g)~50匁(186g)玉の大筒630挺を発注し、造らせていたという。
豊臣方が用いた旧式のフランキ砲は、日本に初めてポルトガルから贈られた口径9cm、砲身長2.9mの青銅製の時代遅れの大砲である。国産化に成功し、石田三成が関ヶ原の戦いで5門使用しているが、豊臣方が用いた旧式のフランキ砲は有効射程距離が330~440mと短く威力が低い上、事故が多発していた。
徳川幕府の公式記録『東照宮御実紀(徳川実紀)』の台德院殿御實紀卷33の慶長19年12月16日の記録には、以下のように記載されている:
此日大工中井大和守正次に命ぜられし佛郞機の架成功す。よて松平右衛門大夫正綱を監使とせられ。岡山に供奉せし御家人の中より。井上外記正繼。稲富宮内重次。牧野淸兵衛正成等の輩妙手を撰ばれ。天王寺口。越前。藤堂。井伊の攻口。備前島。菅沼。織部 正定芳が責口より。大筒小筒一同に城にうちかけ。 櫓塀以下打崩さしむ。城中こゝに於て騷動おびたゞし。
(駿府記。金地院日記。武德編年集成。世に傳ふる所は。御所牧野稲富兩人をめして。備前島片桐が 陣所は城に近く。其上片 桐城内の案内なれば。秀賴母室の居間のあたりへ。大筒を打入しむべしと仰付らる。兩人銃手の妙を得たるもの數十人を撰み。先手前に 櫓をあげ。大筒三百挺國崩し五つを放たしめしに。
稲富が放ちし大筒あやまたず淀殿の居間の櫓を打崩したり。其響百千の雷の落るがごとく。側に侍りし女房七、八人忽に打殺され。女童の啼叫ぶ事おびたゞし。日頃はたけかりし淀殿大に恐れよはりはて。是より和議の事を專ら秀賴にすゝめらる。 …(中略)…
…………………………
………………………… 大坂覺書。天元實 記。)
上記で「佛郞機」とあるのはフランキ砲である。「櫓塀以下打崩さしむ。」は「城の上を越して効果がない。石垣の下、水際の上辺りを狙って放つべき。」という意味である。「國崩し」も通常はフランキ砲のことであるが、ここではカルバリン砲等を含んだ総称かも知れない。
「世に傳ふる所は。」との注意書きは記載はあるものの、 『東照宮御実紀』から命中したのは、近江国友鍛冶の指導者稲富の大筒であることが分かる。真田幸村公資料館の澤田平館長は、命中度を高めるために国友鍛冶の大筒に照準装置を用いた可能性もあると述べている。
https://thepage.jp/osaka/detail/20140621-00000007-wordleaf
江戸時代では、大筒の先にある照星(先目当)と大筒の手前にある照門(後目当又は元目当)の両方の孔を目標に合致させるようにして照準装置として用いていたようである。遠距離用ではこの照準装置の照門に、矢倉(やぐら)と云う標的距離に合わせて高さを選んだアタッチメント(照尺)を、更に付けて大筒の仰角を調整していたようである。
1972年以後のオリンピックの競技ライフルでは標的距離300mの種目は行わず、標的距離は10~50mである。当時田付流の田付景澄、稲富流の稲富祐直、前田家の安見元勝が鉄砲の3名人と称されていた。稲富流の開祖の祐直(稲富一夢)は1611年に没しているので、1614年の大坂冬の陣では、祐直の弟の直重又はその嫡子正直が幕府砲術指南役を受け継ぎ、砲撃の指揮を執っていたという説がある。
しかし、上記の『東照宮御実紀』の記載からは、砲撃の指揮を執っていたのは稲富姓を与えられていた稲富流高弟の幕臣井岡宮内(くない)重次(しげつぐ))であると思われる。日本の照準装置は西欧にはない独自の工夫がされ、命中率が高かったようであるが、大阪城の櫓に大筒の玉を命中させた稲富重次とは、いったいどのような技量を有していたのであろうか。
上述したように、リッペルスハイがオランダで望遠鏡の特許を申請したのはその6年前の1608年である。ベトナム戦争当時、カルロス・ノーマン・ハスコックII世(Carlos Norman Hathcock II)が10倍の望遠照準器を装着したブローニングM-2重機関銃で2300mの長距離狙撃の記録を打ち立て、その後35年間破られなかったという伝説があるが、望遠鏡のない時代での長距離狙撃は極めて難しかったはずである。
大阪冬の陣は、大砲という技術力に着目したか否かで明暗が分かれたと言えよう。家康は1604年から10年かけて大砲を着々と準備していたのである。
§7 炸裂弾が用いられたのは1824年
大阪冬の陣では、火薬が入っていない鉄の玉が砲弾として用いられていたので破壊力は限られていた。1822年の論文でフランスの砲兵将校アンリ=ジョセフ・ペクサン(Henri-Joseph Paixhans)が、炸裂弾を発射できるペクサン砲(Canon Paixhans)を提案し、1823年にペクサン砲の製造が開始される。
そして、英国中世法が制定されて丁度200年後となる1824年になって、戦列艦(デュケーヌ級の重巡洋艦)の船体を炸裂弾で破壊する実験に成功してペクサン砲の威力が確認される。木造船を燃やしてしまう強力な破壊兵器が誕生したのである。
スペインから独立したメキシコとの戦争(米墨戦争)に 1848年に勝利しカリフォルニアを獲得した米国は、東インド艦隊を増強していた。1853年に日本に来航したマシュー・カルブレイス・ペリー(Matthew Calbraith Perry,)の黒船ミシシッピには10門、サスケハナには6門のペクサン砲が搭載されていた。ペクサン砲で攻撃された場合の防御を考慮し、黒船は鉄で装甲を施した船になっていたのである。
日本では、ペクサン砲を「暴母加納(ボンベカノン)」と呼んでいた。例えば、佐賀藩の鍋島茂義は、1824年の「フランス海軍によるボンベカノン試射実験(Experiences faites sur une arme nouvelle)」の報告書を、1846年に西記志十(にしきしじゅう)に翻訳させ、1848年からボンベカノン砲を海岸防備に用いるための研究を続けていた。
『ペルリ提督日本遠征記』には浦賀奉行所与力中島三郎助が米国の旗艦サスケハナに乗り込んで「これはペグサン砲ですね」と言い当てたことが記載されている。サスケハナにはペグサン砲を改良したダールグレン(Dahlgren)砲も搭載されていた。
中島三郎助が「船舶と鉄道とでは蒸気機関に違いがあるのか」「パナマ地峡の開発状況はどうか」等の質問をしたことが 『ペルリ提督日本遠征記』に記載され、当時の日本人が既に入手していた技術的な知識がペリーを驚かせたことが分かる。密偵のように船体構造、蒸気機関及び大砲を入念に調査した中島三郎助は、軍艦の建造を幕府に進言し、1854年に完成した日本初の洋式軍艦鳳凰丸の副将に任命されている。
ペリーは日本に恐怖を与えるため4隻の黒船で大げさにして来航したのであるが、その翌年に日本は洋式軍艦を建造してしまったのである。
日本を侵略できなかった米国は1898年にハワイ共和国を併合、ハワイ準州(米自治領)とする。更に、1898年の米西戦争でスペインに勝利した米国はフィリピンの統治を開始し、1915年にフィリピン全土に米国の主権を認めさせた。1899年のジョン・ミルトン・ヘイ(John Milton Hay)国務長官の支那門戸開放機会均等宣言では米国の中国(支那満州)への進出の意図が読める。すでに1898年には英国、フランス、ドイツ、ロシアによる中国の分割が進んでいた。
辨理士・技術コンサルタント(工学博士 IEEE Life member)鈴木壯兵衞でした。
そうべえ国際特許事務所ホームページ http://www.soh-vehe.jp