第50回 機会主義の狡猾さと知的財産権による保護
欧米では自然科学系の博士が哲学博士 (Ph.D.)といわれることがある。これは、欧州の伝統的な総合大学が、約10世紀近く、哲学部(教養学部)、神学部、法学部、医学部の4学部のみで構成されていたことの影響が大きい。したがって、日本の大学の工学部の出身者が付与される Doctor of Engineering (D.Eng.)とPh.D.との違いは、歴史的には総合大学の構成の違いに依拠している。
§1 山本覚馬の殖産興業の思想を実現した工学の父・山尾庸三
既に第13回で述べたとおり、明治維新の「殖産興業」論の原型は、橋本左内や横井小楠が松平春嶽に宛てた意見書の中に見出すことができるとされている(佐藤昌介他編『日本思想大系55』,岩波書店,p438-50,p538-39、1971年)、
又、会津藩士山本覚馬が慶応4年(1868年)6月に新政府宛てで提出した「山本覚馬建白(通称、『管見』)に殖産興業の思想が見られることも第13回で説明した。『管見』は、横井小楠の『国是三論ー富国論』を更に発展させた内容になっている。
明治2年(1869)年5月の五稜郭の戦いで榎本武揚らが降伏し戊辰戦争が終結すると、明治新政府は6月に版籍奉還を許し、藩主を知藩事に任命する。そして、明治2年7月の官制改革で明治新政府は2官6省制へ移行した。太政、神祇の2官と、外務、民部、大蔵、兵部、宮内、刑部 の6省である。明治3年(1870)年に明治新政府は民部省の工業の分野を移管し工部省が創置された。
工部省創置の目的には,
(a)民間に工業を勃興させるために啓蒙的,教導的な任務を引き受けること
(b)「国営工業による財政的,軍事的その他各種利益の期待
が挙げられた。
【図1】
工部省事務章程七ケ条には、工学の開明、工業の勧奨、鉱山の管轄、鉄道・電信・灯台・礁標の建設、船渠の製造、金属の精錬と器械の製作、陸海の測量の7項目が定められ、明治政府の「近代化政策を代表する殖産興業政策」が明確になる。
明治3年 (1870年)には、工部省に,鉱山・鉄道・伝信機・燈明台・製鉄の5部門が設置されたが、明治4年には、鉱山寮・鉄道寮・電信寮・燈台寮・造船寮・製作寮・製鉄寮・勧工寮・工学寮・土木寮・測量司の10寮1司に改められた。更に、明治8年には,鉱山寮・鉄道寮・電信寮・燈台寮・製作寮・工学寮・営繕寮の7寮となる。
そして、明治4年(1871年)に我が国最初の特許制度となるはずであった「専売略規則」が制定されたが、残念ながら、特許を審査する審査官のめどが立たず廃止されてしまった。
その後、明治18年に専売特許条例が制定され、特許庁の前身である「専売特許所」が設立されている。専売特許条例の制定には初代の文部大臣森有礼が尽力しているようである。
薩摩藩の森有礼は慶応元年(1865年)にイギリスにジャーディン・マセソン(Jardine Matheson) 商会の長崎代理店であるグラバー(Glover)商会所有の船で密航した際、ロンドン大学のロンドン・ユニヴァーシティ・カレッジ (University College, London:UCL)で先に密航していた伊藤博文他4名の長州五傑(Choshu Five)と会い、科学技術の重要性に気がついていた。このとき、長州五傑はマセソン 商会のロンドン社長ヒュー・マセソン(Hugh Matheson)の世話を受けていた。
ジャーディン・マセソン商会は、いずれもユダヤ人であるウィリアム・ジャーディン(William Jardine)とジェームス・ニコラス・サザーランド・マセソン(James Nicolas Sutherland Matheson) により、1832年に中国のマカオにアヘンの密輸を目的に設立された貿易商社でアヘン戦争(1840-1842)に深く関わっている。1984年、登記簿上の本社をタックス・ヘイヴンのバミューダ諸島に移転している。
長州五傑が密航した当時、伝統的なオックスフォード大学とケンブリッジ大学は、英国国教徒にしか入学を認めず、1826年創立のUCLだけが、日本人に門戸を開いていた。
その長州五傑の一人である山尾庸三先生が明治元年11月19日に帰国し、図1に示した工部省の工学寮の設置に尽力されたとされている。山尾先生が「工学の父」又は「日本の工業の父」と称される所以である。なお、明治元年11月19日は、1869年1月1日になる。日本は明治5年12月2日(=1872年12月31日)まで太陰太陽暦を採用していた。
山尾先生が担当大政官に提出した「建言書」には以下のように記載されている:
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国家の文明を盛大にするには、先ず知識を備えた人材の養成が必要であることを大前提とし、工部省に至急工部学校を建設しなければならない。そこで学んだ少年有志を順次洋行させて、将来は外国人教師による煩わしい人材育成から脱却し、万世不朽の基本を築かなければならない。
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図1に示した工部省の工学寮は1877年(明治10年)に工部大学校となるが、校舎の建築には70万円という巨額が投入された。
明治4年の「専売略規則」は指導的立法とされているが、明治18年の「専売特許条例」は必要的立法と言われている。大日本帝国憲法の発布が明治22年(1889年)であり、明治政府の最高指導者達は、「殖産興業政策」として技術の重要性に着目しており、なんと憲法の発布よりも先に日本の工業の発展の基幹となる特許制度を発足させているのである。
§2 欧米では歴史的に技術系の学問が低く見られていた
東京開成学校と東京医学校が合併して 1877年(明治10年)に発足した(旧)東京大学は法、理、文、医、の4学部から成っていた。1885年(明治18年)に理学部に含まれていた土木工学・機械工学・採鉱冶金学・応用化学・造船学の5学科を独立した工芸学部に発展した。
そして、1886年(明治19年)の帝国大学令により工部大学校は(旧)東京大学工芸学部と合併、帝国大学工科大学となった。合併時には、工部大学校の造家科(後の建築学科)と電気工学科は、(旧)東京大学工芸学部にはなかった。図2に示すように、このとき司法省法学校も同時に吸収されている。
当時は世界中のどこにも工科大学(現在の「工学部」に相当)のある総合大学は存在していなかった。「工科大学」の名称が現在の「工学部」となったのは、大正8年(1919年)である。
【図2】
帝国大学は、工科大学、理科大学、法科大学、医科大学、文科大学の5つの単科大学(分科大学)の総称であり、5分科大学の総合的組織になった。図2に示すように、帝国大学成立以前には、工部省には工部大学校、司法省には司法省法学校、内務省には東京農林学校(駒場農学校)があり、(旧)東京大学の性格としては、教員養成所や専門学校のような性格であった。
1886年以前は、各省の専門官僚養成学校にも優秀な学生が在籍していた。アドレナリンの発明(特許第4785号)で日本の10大発明家になっている高峰譲吉も、工部大学校を主席で卒業した化学科の第1期生である。高峰譲吉は、1894年(明治27年)にシカゴにて米国特許弁理士の資格取得している。高峰譲吉が、日本人で初めて米国特許弁理士の資格を取得した人である。
10大発明家に選ばれている豊田佐吉や御木本幸吉は、明治以降の高等教育を受けていない。よって、高峰譲吉が最高学府の高等教育を受けた最初の10大発明家になるであろう。1886年に帝国大学に改組された後、初めて『最高学府』として、優秀な学生が帝国大学に集中するようになったといえるのである。
図2に示すように、明治23年(1890年)に東京農林学校と東京山林学校が吸収され、一分科として農科大学が設けられたので、帝国大学は6分科大学制となった。
帝国大学工科大学の前身の工部大学校は1854年に設立されたスイス連邦工科大学(Eidgenoessische Technische Hochschule:ETH)をモデルとして作られたと言われているが、ヨーロッパでは歴史的に技術系の職業が低く見られていた。ETHはアインシュタインが学んだ大学として有名であるが、ETHの教育課程が大学のものに沿った形に再構成され、博士号授与の権利が与えられたのは1909年である。
世界の工学教育の源流を遡れば、図3に示すように、フランスの軍隊技術者セバスティアン・ル・プレストル・ド・ヴォーバン(Sebastien Le Prestre de Vauban)の提案で、1675年に城砦構築や王宮・運河などの建設のため陸軍に軍用土木技術者団が創設されたのが最初とされている。
フランスではその後、土木工事にたずさわる技術者を養成するため、1747年に国立土木学校(Ecole nationale des ponts et chaussees)が創立され、1794年の革命中に数学者ガスパール・モンジュ (Gaspard Monge)によって理工系エリートの養成機関であるエコール・ポリテクニク(Ecole polytechnique)が創立されている。しかし、技術系の養成機関は総合大学より一段低く評価され、エコール・ポリテクニクで博士号(PhD)の付与が開始されたのは、1985年からである。
【図3】
我が国でも当初は、法律を優先し、技術を低くみていた風潮があり、工部大学校の初期には工学寮や工作局の下におかれていたが、明治政府は殖産興業や軍事力強化のためには、ぜひとも科学技術の幅を広げ、レベルを高めなけれならないことに気がつき、工部省の直轄になった経緯がある。
このため、明治政府は1887年(明治20年)に学位令を制定し、翌1888年には松本荘一郎、古市公威、原口要、長谷川芳之助、志田林三郎の5名に工学博士が授与されている。このうち工部大学校の卒業生は志田博士のみであり、他は大学南校(開成学校)の卒業生である。古市博士は1886年に帝国大学の初代工科大学長に就任している。
工科大学の教頭心得兼教授となった志田博士は、工部大学校の卒業後に留学したグラスゴー大学で「生涯のなかで最も優秀な生徒」と指導教授に言わしめるほど抜群の成績をおさめて帰国している。志田博士は、グリエルモ・マルコーニ(Guglielmo Marconi)の実験より9年も前の1886年に隅田川で導電式無線通信実験を行っている。
エコール・ポリテクニクを真似したドイツの工学系の技術者養成機関であるTechnische Hochschule(TH)も原語が示す「工科高等専門学校」としての扱いで、比較的低い地位に留めおかれ、どれほど良い論文をかいても博士号はもらえず、貰えるのは『エンジニア(ingenieur)』 という称号でしかなかった(村上陽一郎著、『技術とは何か』、日本放送出版協会、 p.130、1986年)。エンジニア(ingenieur)は、フランスのエコール・ポリテクニクが起源で、学問的教養を持ち国家的仕事に従事する技術者の称号である。
THに学位授与権(Promotionsrechte)が認められ、大學とほぼ同等の地位を獲得するのは1899年になってからである(佐々木力著、『科学論入門』、岩波新書、p104)。1899年のベルリン=シャルロッテンブルクTHの100周年祭でプロイセン国王が国内のすべてのTHに博士学位Dr.Ingenieur授与権を与えた。
しかし、最高の学位を授与する最高学府であると自認する総合大学(Universitaet)側が猛反発し、THの学位はドイツ文字でDr.Ing.と略記して、ラテン語表記の総合大学の学位とは異なる表現をすることになった。1088年創設のイタリアのボローニャ大学が西ヨーロッパで最初の大学とされるが、欧州の古典的大学では、当時、学芸学部(哲学部)、法学部、医学部、神学部の4つの学部ですべての学問が網羅されていると考えられていた。したがって、その後THが大学(Rheinisch-Westfalische Technische Hochschule Aachen)として発展するのには1945年まで待たねばならなかった。
§3 MITが最初に博士号(PhD)を付与したのは1907年
このような技術系の養成機関の評価を低くみる傾向は米国でも強く、理工系専門の教育機関として、1861年にボストン技術学校の名で設立され、1865年にマサチューセッツ工科大学に改称して開校したマサチューセッツ工科大学(MIT)も人々から偏見の目で見られた。MITを「職業訓練学校」と侮辱する者もいたとされている。実際、創設当初のMITは、必要な講座のみを選択し受講してもよいシステムであったようである。
MITが理学士(S.B)の学位が付与できるようになるのは1872年まで待たなければならなかったようである。MITが最初に博士号(PhD)を付与したのは1907年である(https://libraries.mit.edu/archives/exhibits/firstPhDs/)。
博士課程の強化と標準化を目的として1900年に設立されたアメリカ大学協会(the Association of American Universities、AAU)にMITが入会したのは、AAUの設立後34年を経た1934年である。
又、MITよりも41年早い1824年に土木技術者の養成を目的としてニューヨークに設立されたレンセラー学校では、1825年入学の最初の学生は10名で、お互いに知っていたものを教えたということである。1826年の最初の卒業者にBachelor of Arts in Rensselaer School[A.B.(r.S.)]及びMaster of Arts in Rensselaer School [M.A.(r.S.)]という独特な学位 を授与 した。レンセラー学校はその後、1833年に「レンセラー・インスティテュート」になり、1861年に「レンセラー工科大学」の名称になる。レンセラー工科大学(Rensselaer Polytechnic Institute:RPI)が工学博士号(D.Eng.)を授与することができるようになったのは1916年である。
【図4】
最初に工学博士を授与された5名の内の松本荘一郎博士(土木工学)と原口要博士(土木工学)の2名は、工学博士を授与される前に、1870年と1875年にそれぞれレンセラー工科大学に官費留学している。1973年に江崎玲於奈博士と共にノーベル物理学賞を受賞したアイヴァー・ジェーバー(Ivar Giaever)博士はレンセラー工科大学で1964年にPhDの学位を取得している。
英語圏最古の工科大学として知られるレンセラー工科大学はAAUに入会していない。1934年にはカルフォルニア工科大学がAAUに入会し、2010年にジョージア工科大学がAAUに入会しているので、AAUに入会している工科大学は3校である。
マサチューセッツ工科大学(Massachusetts Institute of Technology)の「インスティテュート( Institute)」 という名称は、「カレッジ」でも「ユニパーシティ」でもない「大学とは異なる教育機関」を意味していた。したがって、エリートの養成機関である総合大学の中に、日本が工学部を独立した学部として世界で最初に設置し、総合大学に統合したということは画期的なことである(村上陽一郎著、『工学の歴史と技術の倫理』岩波書店、 p.116、2006年)。
§4 世界の工学の中心は日本に移った
ケルヴィン卿(Lord Kelvin)の名で知られるグラスゴー大学のウィリアム・トムソン(William Thomson)は、日本の工部大学校の教授陣、実験施設の充実をウィリアム・エドワード・エアトン(William Edward Ayrton)から報告を受け、「世界の工学の中心は日本に移った」と言ったと伝えられている(浅野応輔著、『ダブリユー・エルトン先生』、明治文化発祥記念誌、大日本文明協会、p41、1924 年)。W・E・エアトンは、明治6年(1873年)から11年まで工部省工学寮及び工部大学校で初代教授として勤務した。
日本の工部大学校と比較に値する研究所は、当時ケンブリッジ大学のキャベンディッシュ研究所とグラスゴー大学のケルビン研究所だけだったのであり、ジェームズ・クラーク・マクスウェル(James Clerk Maxwell)が「電気学の重心が日本に移った( "the electrical centre of gravity had been shifted to Japan")」と指摘したという話も有名である(J. Perry, "Obituary : William Edward Ayrton, F. R. S", The Electrician, Vol.62, p.187, (1908))。当時、世界で最も充実した工学の教育機関が日本に産まれたのであった。
【図5】
図5を見れば「電信科」という名称であるが、世界で最初に電気工学系の学科を設置し、教育を開始したのは日本であることが理解できる。マクスウェルが「電気学の重心が日本に移った」と指摘したのも当然と思われる。当時、工学寮(工部大学校)電信科から英国の論文(学会誌)への投稿が非常に多かったようである。
工部大学校の初代の都検(教頭=実質的な校長)で教授陣の一人でもあったヘンリー・ダイエル(Henry Dyer)は、来日に先立って工部大学校の構想を練っていた。工部大学校の校長は、五稜郭で降伏して投獄された後、明治5年(1872年)の特赦で出獄した工作局長(後に工部省工部技監)の大鳥圭介であった。
ダイエル(ダイアー)教頭は独仏の学問は学理のみに偏した教育をうけているだけで、実地に迂潤であるから役に立たないと判断した。一方、英国の工学は実地主義でよい教育方法であるが、徒に時間を費すことが多い問題があると判断した。このため、ダイエル教頭は、ETHの組織やカリキュラムを調べて、独仏英のいずれにも偏しない工部大学校の学則を創成したとされる。
ダイエル教頭の教育は、インターンシップの先駆けとも言える実践的教育で、予科2年、専門科2年、実地科2年の計6年間の修業年限のうち最終の2年の実地科は実地訓練であった。鉱山専攻2期生の荒川己次氏は実地訓練で佐渡の金山、秋田の山奥の阿仁銅山等に出張し、出張中はすべて鉱夫と同じ仕事をなしたそうである(荒川己次著、「旧工部大学校画顴録」「旧工部大学校史料附録」、青史社、p55-56)。
専門科も実習があり、電信科専攻4期生の山川義太郎博士は、岩手県の一戸へ行って電信柱を立てたそうである(山川義太郎著、 「工部大学校昔噺(東京帝国大学・丁友会パンフレット第1号)」、後藤単伝編、p35、昭和2年)。電信科専攻4期生にはエジソンを唸らせ、その後日本電気株式会社(NEC)を創設した岩垂邦彦もいる。
このようにして、日本の産学協同(産学連携)の起源を更に遡れば,1873年(明治 6年)に工部省が工学寮を設置した原点にまで帰着することになるのである。
§5 グラスゴー大学では学芸学部の中に工学講座を開設
実は、英国も工学部の成立は遅く、1096年には既に講義が行われていた英国最古の大学であるオックスフォード大学に、小規模な工学部ができたのは1908年である。
英国のグラスゴー大学に1840年に工学部が設置されたのが世界で最初という説もある。しかし、グラスゴー大学の教養課程に相当する学芸学部(Faculty of Arts)の内部に、ヴィクトリア女王による欽定講座(Regius Professorship)として土木工学・機械学 (Civil Engineering and Mechanics)の工学系の講座ができたということで、従来の神学部、法学部、医学部等と対等な新たな独立した学部として工学部が設置されたのではない。
グラスゴー大学に医学部及び学芸学部から分離して「理学部」が独立した学部として設置されたのは1893年であり、日本の「帝国大学」よりも遅い。グラスゴー大学に「工学部」が独立した学部として正式に設置されたのは1923年である。
「工学部」が設置される前の「工学」の講座はグラスゴー大学の学芸学部に属していたが、 学芸学士を取得できる科目ではなかった。2代目の教授ウィリアム・ランキン(William John Macquorn Rankine)の努力により、理学士 (工学)(B.Sc. in Engineering) の授与が1872年になってやっと認められることとなった。この土木工学・機械学講座のランキン教授が自分の愛弟子であるダイエルを推薦して日本に送り込んだのである。
ダイエルは、働きながら夜学のアンダーソンズ・カレッジ(現在のストラスクライド大学)に通い、ここで工部省の工学寮の設置に尽力された山尾庸三先生と一緒に工学を学んだいる。当時のスコットランドには、「半労半学(half time system)」と称される制度があり、昼間は現場で「労働]して技術を身につけ、夜は体験した技術を支える論理を「勉学」しろということであった。
グラスゴー大学の工学講座以外でも、英国における旧総合大学による高等教育の独占を打ち破るためにUCLが1841年に設立され、前述した長州五傑(Choshu Five)がUCLで学んでいる。その少し前に、ロンドン・キングス・カレッジ (King's College, London:KCL)が1838年に設立されている。UCLでも「工学」の講座は学芸・法学部 (Faculty of Arts andLaws) の中に設置されている。UCLやKCLの設立は産業革命後の鉄道の発達による土木工事等の産業界の技術者に対する要請があったためんと思われる。
ダフィット・ヒルベルト(David Hilbert)らを育て、応用数学の父と称せられるフェリックス・クリスティアン・クライン(Felレルix Christian Klein)は、1872年にエアランゲン大学の教授に就任し、その時の就任講演で、総合大学とTHを統一的組織にすることを提案しているが、相手にされなかった。結局クラインが1886年にゲッティンゲン大学教授に就任して1897年に哲学部の中に物理工学科をおいた程度が、ドイツの総合大学での工業教育に対する進歩といえる。1887年の、ハノーファーTHをゲッティンゲン大学の第5番目の学部として統合するクライン教授の構想は、賛同をえることはできず失敗に終わっている。
§6 「研究」を標榜した3番目の帝国大学が仙台に
このように欧米では工業教育の環境は日本より遅れていた。日本では、1897年(明治30年)に「京都帝国大学」が設置され、従前の「帝国大学」は「東京帝国大学」という名称に改められた。京都帝国大学は、法科大学、医科大学、文科大学、理工科大学の4文科大学でスタートし、工科大学はなかった。しかし、明治36年勅令第68号によれば、理工科大学には、土木工学4講座、機械工学5講座、電気工学3講座が存在した(1914年(大正3年)になって京都帝国大学の理工科大学が工科大学と理科大学に分けられた。)。
そして、1900年(明治33年)の第14回帝国議会において理工系の大学として「九州東北帝国大学設置建議案」が採択されている。しかし、政府の資金難により「九州帝国大学」及び「東北帝国大学」の設置が進まず、日露戦争(1904年2月-1905年9月)が終結した後の1907年(明治40年)になって、古河財閥の寄付金を基礎に、日本で3番目の帝国大学として東北帝国大学の本部が仙台市に設置された。
工部寮、工部大学校の時代を含め1880年代前半に至るまで東京帝国大学は、工科大学の学生が最も多く、全体の1/4~1/3を占めていた。このコラムの第18回で説明したとおり、東北帝国大学と九州帝国大学の設立後の東京帝大の学生数割合は、法科大学(当時は、法学部と経済学部が未分離)が3割から4割に達し、工科大学の学生数割合が急激に減少し、東京帝国大学は政府官僚育成を任務とした大学の性格を強めていく(立花隆著、『天皇と東大 上』、文芸春秋、p.135-137参照。)。
1886年(明治19年)の帝国大学令第6条には総長と法学部長(法科大學長)が兼任する規定があり、法学部長でなければ東京帝国大学の総長になれなかった。 「官僚養成」を標榜した東京帝国大学、「学問」を標榜した京都帝国大学に対して、東北帝国大学は「研究」を標榜した帝国大学であるといわれる。九州帝国大学が独立設置されたのは1911年(明治44年)である。
古河財閥からの「福岡工科大学、仙台理科大学、札幌農科大学」の校舎建設資金は、東北帝国大学分として農科大学(1918年に東北帝国大学から分離され北海道帝国大学になる)に13.5万円、理科大学に24.4万円、九州帝大分として工科大学に60.8万円が割り当てられたとされる。
明治後期の1円が現在の1万円に相当すると仮定すれば、東北帝国大学理科大学の校舎建設資金として約25億円が古河財閥から投入されたことになる。東北帝国大学理科大学の設置は九州帝国大学と同じ1911年である。東北帝国大学理科大学には当初、数学科、物理学科、化学科、地質学科の 4学科が置かれた。
東北帝国大学の設立が閣議決定されたときの教授の人選が東京帝国大学の長岡半太郎先生に依頼された。長岡先生は、ご自分の弟子にあたる本多光太郎先生(教授)、日下部四郎太先生(教授)、愛知敬一先生(教授)、石原純先生(助教授)らを東京帝国大学から東北帝国大学の物理学科に送り込んでいる。数学科の藤原松三郎先生(教授)、化学科の真島利行先生(教授)、地質学科の矢部長克先生(教授)及び佐川栄次郎先生(教授)らの人選をしたのも長岡先生といわれている。
石原純先生は、東北帝国大学助教授時代にヨーロッパに留学し、スイス連邦工科大学チューリッヒ校( ETHZ)ではアインシュタインのもとで学び、1922年(大正11年)に、アインシュタインの来日講演の通訳をした。アインシュタインは晩年「本多、日下部、愛知、石原が揃っていたころの仙台は脅威だった」と述懐している(松尾博志著、『電子立国日本を育てた男 八木秀次と独創者たち』、文藝春秋、p94)。
その後、東北帝国大学第2代総長北条時敬先生に、本多光太郎先生が理化学研究所の建設を直訴したことがきっかけとなって、1916年(大正5年)1月に住友家15代当主住友吉左衛門から本多光太郎先生への研究費30万円の寄附がなされて東北帝国大学理科大学臨時理化学研究所が発足した。
それ以後も寄附金支弁方式で東北帝国大学理科大学臨時理化学研究所が拡充されて現在の東北大学金属材料研究所に至る。本多先生は、組成の異なる膨大な試験材料を作っては焼成しついにKS鋼を発明する(特許第32234号)。KS鋼の名称の由来は、住友財閥「住友吉左衛門」のイニシャル「K・S」である。
辨理士・技術コンサルタント(工学博士 IEEE Life member)鈴木壯兵衞でした。
そうべえ国際特許事務所ホームページ http://www.soh-vehe.jp