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鈴木壯兵衞プロは青森放送が厳正なる審査をした登録専門家です

第20回 明治時代における青森県からの特許出願

鈴木壯兵衞

鈴木壯兵衞

テーマ:青森県の特許

 特許のデータから明治時代に於ける旧斗南藩の疲弊と旧弘前藩の活況が読める

      §1 江戸時代の弘前藩は外国に近い存在であった
      §2 函館戦争では青森は政府軍の拠点であった
      §3 明治4年に県庁が弘前から青森に移された
      §4 J-PlatPatの検索では明治32年~39年の特許の発明者の住所が不明
      §5 青森県の最初の特許は旧斗南藩から
      §6 明治40年頃までの青森県の特許出願の中心は旧津軽氏領
      §7 明治7年に紹介された18世紀の英国の発明を、日本人が直ちに改良して特許出願
      §8 弘前市の鹿内豊吉さんが7つの特許を取得

§1 江戸時代の弘前藩は外国に近い存在であった

 現在の青森港の近くに善知鳥神社がある(青森市安方2-7-18)。この神社にある沼に、チドリ目ウミスズメ科に属する中型の海鳥である善知鳥が群棲ししていたと言われている。

 1593年(文禄元年)、安東政季の娘婿の蠣崎慶広(かきざき よしひろ)が秀吉から蝦夷島主として承認され安東氏から独立した。1599年松前(松平+前田)氏を名乗るが、アイヌ語で北海道の事を「マトマエ島」と言ったことに由来している。その後、豊臣・徳川など中央政権の承認により松前藩が成立している。江戸時代、北海道は「和人地」「蝦夷地」に分けられ、「和人地」を松前藩が支配し ていた。

 江戸時代にアイヌは宗谷海峡、間宮海峡を超えて千島や樺太、中国の黒竜江流域と交易を行っていた。シベリアには、清の出先機関があった。徳川幕府は松前藩蠣崎氏にアイヌとの貿易独占権を与えていた。青森県にはアイヌ語地名だけでなく、生活用具から衣服に至るまで、アイヌの人々と和人が共生していた痕跡が残っており、小石川透氏は江戸時代までアイヌの人々が青森県で生活していたと言われている(盛田稔編、小石川透著、『青森県謎解き散歩』。中経出版、p.49-51)。

 即ち、弘前藩は、中国等の外国等に近い存在であったことが推定される。江戸幕府は長崎(出島)の他、朝鮮との貿易の拠点として対馬を、中国と東南アジア諸国との中継貿易をしている琉球王国との貿易の拠点として薩摩を、アイヌとの貿易の拠点として松前を認めていた。

 伊達藩の支倉常長らの慶長遣欧使節団がローマ教皇パウルス5世に謁見して帰国したのが1620年9月である。慶長遣欧使節団は、徳川秀忠と伊達政宗とが協議して派遣した外交・通商上の公式使節である。

 1624年(寛永元年)は今日まで引き続き施行されている特許法としては世界最古の英国専売条例が制定された年である。この1624年に 弘前藩が青森町の古名である「善知鳥村(うとうむら)」に港の建設を始めたとされるが、1624年に徳川幕府はスペインとの国交を断絶している。

 弘前藩2代藩主津軽信枚によって1626年(寛永3年)に青森町(「青盛町」)が成立した。津軽信枚は1622年(元和8年)~1653年(寛永12年)にかけて青森湊・鰺ヶ沢湊・深浦湊・十三湊を重要湊(津軽四浦)として町奉行をおいた。この四浦制度は1661~80年(寛文~延宝)頃には制度として成立していたという。弘前藩の日本海海運(北前船)の拠点とされたのは鰺ヶ沢湊である。

 鰺ヶ沢湊とともに「両浜」と呼ばれた青森湊は、江戸中期以降弘前藩最大の港に成長している。幕末において青森湊には瀧(たき)屋(伊東善五郎家)等13軒の廻船問屋が存在した。伊東善五郎は青森県初の銀行として1878年(明治11年)に弘前に設立された第59国立銀行(初代頭取は弘前藩家老大道寺繁禎:現在の青森銀行)の監査役となっている。

§2 函館戦争では青森は政府軍の拠点であった

 明治2年(1869年)に明治政府に出仕し大蔵省預金局長等を歴任した兵頭正懿(まさし)氏が暴露した話によると、明治4年10月~5年6月までの廃藩置県の際、皇政復古の忠勤藩には藩名を付し、朝敵となった藩には郡名若しくは山名川名等を付した事実があるが、このことは、決して公表されなかったそうである(宮武外骨著、『府蕃県制史』、名取書店、1941年、p89-97)。

 今見ると、例外があるように思われるが宮武外骨氏は例外になった理由は説明できるとしている。後述するように青森県の県名も例外に当たるであろう。

 戊辰戦争において、奥羽越列藩同盟側の盛岡藩は明治元年(1868年)9月20日に新政府に降伏した。しかし、慶応4年(1868年)7月13日の段階で奥羽越列藩同盟を脱退していた弘前藩は黒石藩との連合軍を構成し、9月23日に朝敵である盛岡・八戸藩連合軍と交戦し、両軍合わせて数十名が死亡したとされる、野辺地戦争がおきている。

 日和見主義的な弘前藩の新政府への忠誠を示すために、弘前藩が起こしたのが野辺地戦争ではなかったのか、という説もあるようである。

 1868年10月30日に旧幕府軍による箱館占拠の通報を受け、新政府は奥羽征討軍参謀であった長州藩の山田顕義を青森に送り込み、11月9日に青森口陸軍参謀(海軍参謀兼任)に就任させ、新政府軍を青森に終結させている。新政府の陸軍には弘前藩兵2200名を中心に約8,000名が青森に集結した。

 新政府の軍艦である東艦は青森口陸軍参謀のある青森港で待機し、1869年4月9日の新政府軍上陸に際しては箱館湾に出撃している。

§3 明治4年に県庁が弘前から青森に移された

 現在の青森県に対応する領域には、江戸時代に旧津軽氏領の弘前藩、黒石藩と、旧南部氏領の盛岡藩、八戸藩があった。明治4年7月の廃藩置県では、旧弘前藩、旧黒石藩、旧斗南藩、旧七戸藩、旧八戸藩をそれぞれ引きつぐ形で弘前県、黒石県、斗南県、七戸県、八戸県の5県が、現在の青森県の地理的領域の範囲内に成立した。

 明治2年の版籍奉還により北海道の松前藩が館藩となった。1454年(享徳3年)、陸奥津軽十三湊付近を拠点としていた豪族安東政季が南部氏との戦闘に敗れて蝦夷地に渡り「道南十二館」を設けた。十二館の内の「宇須岸(ウスケシ)館」が館が箱の形に似ていることからこの地を「箱館」と呼ぶようになったとされる。

 明治4年(1871年)9月4日には上記の5県に北海道渡島半島の館県(館藩)を加えた合計6県が合併し、当時突出した都市だった弘前(弘前城下)に県庁を置いて、弘前県が成立している。弘前県が成立したときには、旧藩政時代の飛地である現在の群馬県の太田市(旧尾島町、旧新田町)と伊勢崎市(旧境町)も含まれていた。

 しかし、弘前県が成立した19日後となる明治4年9月23日に県庁は弘前(弘前城下)から、弘前藩で城下弘前に次ぐ町である青森町に移転し、県名も青森県に変更する太政官布告が発せられた。弘前県参事野田豁通(ひろみち)が、県庁を弘前から青森に移転するように大蔵省に要請していたためである。「青森」という名称は、それまでの津軽藩と南部藩との確執を和らげたいという思惑があったともいわれている。
 
 明治政府として正式には明治22年の 町制施行により東津軽郡青森町が成立している。そして、明治31年の市制施行により青森町が青森市になり、同時に弘前城下が弘前市になっている。
 
 野田は横井小楠の門下生で、箱館戦争で軍監として活躍した熊本藩士である。当時の弘前藩主津軽承昭(つぐあきら)は、野田の主家である熊本の細川家から津軽家の養子に迎えられた人物である。津軽承昭は明治4年の廃藩置県で免官され東京に移っている。横井小楠は明治維新に於ける我が国の「殖産興業」論の原型を提示した人物と言われている(第13回:ピケティの『21世紀の資本』と特許制度の役割 参照。)。

 野田は大蔵省に対し、「弘前県庁では藩政時代の旧弊に囚われてしまう」「青森の港湾の将来性が見込まれる」「弘前県庁では地理的位置が偏っている」等の理由を提示して、県庁を青森町(「青盛町」)に移転することを赴任前に申請していたとのことである。その結果、野田は弘前には行かず、県庁開設作業中の青森町に大参事(県知事事務取扱:初代官選青森県知事)として着任することになった。
 
 江戸時代の藩主は明治維新の「版籍奉還御聴許」によって「藩知事」と名称を変えたが、その後の廃藩置県により藩知事が廃官となり、家老的役割としての大参事が「県知事事務取扱」となったのである。
 
 県庁は、江戸時代の1671年(寛文11年)に津軽藩が北方警備の陣屋として設置した青森町の「御仮屋」に設定されたが、今もその場所に現在の青森県庁がある。県庁の移転後の明治5年9月20日に渡島地方は北海道に、飛地の尾島町・新田町・境町は明治4年10月28日布告の第1次府県統合によって群馬県へ編入された。
 
 その後、幾度か弘前に県庁を移転したい旨の陳情がなされたようであるが、結局、そのままで現在に至っている。

 2016年3月に北海道新幹線が開通する予定であり、新青森駅は北海道と東京を結ぶ交通の要衝と重要な駅である。145年前となる明治4年(1871年)の県庁の青森町への移転は、明治時代の初期に、青森町が北海道と本州を結ぶ交通の要衝として既に認められていたということである。
 
 野田大参事は、大垣藩士であった菱田重禧(しげよし)権令の急進主義と意見が合わずに、明治5年に大参事を辞任し、菱田重禧が第2代青森県官選知事となる。野田はその後明治28年になって、陸軍主計総監となっている。
 
 表1に示すように、明治4年に制定された太政官制Ⅲの4等官が「県令」であり、5等官が「権令」である。「知事」の名称が使われるのは、明治19年(1886年)の地方官官制からである。
 
 【表1】

 尚、県庁の青森町への移転完了は明治4年12月1日である。菱田重禧が青森県権令に転じたのは明治4年 11月2日で、着任は 12月29日のことであるので、明治4年9月以降県政の全権は、形式上野田大参事に帰属していた。「弘前藩ハ7月ニ廃セラレ、弘前県ヲ置レタルモ、11月中マデハ、唯名ノミニシテ、実際ハ尚、藩治ノ体ヲ存続」していたのである(津軽承昭公伝刊行会編、『津軽承昭公伝』、歴史図書社、p317、1976年)。

§4 J-PlatPatの検索では明治32年~39年の特許の発明者の住所が不明

 独立行政法人「工業所有権情報・研修館」(INPIT)の特許情報プラットフォーム(J-PlatPat)を用いて、明治18年8月~明治41年4月までに登録された特許の内の、青森県に関係する特許を検索したのが表2である。
 
 【表2】 

 残念ながら、J-PlatPatで検索できる明治32年7月~明治39年6月(特許第3615号~第10673号)あたりの特許明細書のヘッダー部分には住所の記載がなく、この期間の青森県からの出願であるか否かの判断ができない。これは明治32年改正の特許法の施行によるものと考えられる。

 明治32年7月1日に施行された特許法第42条には「特許局は特許公報を発行して特許発明の明細書、図面、特許証の改訂、特許の異動その他特許に関する必要な事項を公示すべし」と記載されている。特許法の改正に伴い、発明者の氏名以外の書誌的事項をJ-PlatPatで検索できる明細書中の位置には記載しない様式にしてしまったためと思われる。
 
 即ち、上述した明治32年~明治39年の期間については、J-PlatPatで検索できる明細書の最後に発明者の氏名が発見できるものの、発明者の住所の記載はないため、発明者が青森県に関係しているか否かの判別ができない。このような事情から、表2は明治時代の青森県に関係する特許を網羅するものではなく、一部のデータが欠損した不完全なデータを示していることをご留意願いたい。 
 
 このように、現在のJ-PlatPatのデータは、明治32年に発明者の氏名以外の書誌的事項を特許公報の他の部分に記載する様式に変更したときの事情を考慮していない明細書の内容を表示しているため、J-PlatPatで検索できる特定の期間の特許については発明者の住所が発見できないという問題を有している。

 筆者は直接特許庁の2階にある独立行政法人「工業所有権情報・研修館」を訪ね、明治32年~明治39年の期間に於ける明細書の住所のデータの調査を依頼した。しかしながら、「工業所有権情報・研修館」での調査によっても、明治32年~明治39年の期間における特許明細書には住所の記載が見いだせないとの回答であった。国の財産たる貴重なデータの一部が消失してしまっているのである。
 
 なお、特許公報の別の箇所を見ないと発明者の住所が分からないのでは利用者に不便なので、明治39年7月ぐらいの発行分から特許公報の明細書のヘッダー部分に発明者の住所を記載するようになったようである。したがって、明治32年~明治39年以外の他の期間については、J-PlatPatで検索できる特許については発明者の住所が発見できる。
 

§5 青森県の最初の特許は旧斗南藩から

 青森県に関係がある特許として、表1のテーブルの最初の行(レコード)に出てくるのは、明治23年8月13日に長谷川淸治さんが出願した水瓶(図1参照。)に関する特許第1026号である。長谷川淸治さんの本籍は、青森県上北郡三本木村字稲生町四番地であるが、特許出願当時、長谷川淸治さんは大阪府に寄留している。

 【図1】

 「寄留(きりゅう)」とは、日本の旧法令で、90日以上本籍外において一定の場所に住所または居所を有することである(寄留法1条)。昭和27年住民登録法(後の住民基本台帳法)の施行とともに、寄留法は廃止されて寄留という制度は全く存在しなくなった。寄留は戸籍制度を補充し、内地および樺太にある内外人民の所在を明確にする重要な制度であるとされていた。
 
 後述する図2の青森県の地図の上北郡の三本木村の位置に1個の緑色の臼(円盤)を示しているが、この緑色の臼が青森県を本籍として長谷川淸治さんが大阪府で特許出願したことを示している。

  冒頭で述べた弘前県、黒石県、斗南県、七戸県、八戸県の合併は、斗南県の困窮が原因とも言われている。斗南県小参事の広沢 安任(ひろさわ やすとう)が、斗南県の救済策として弘前県への吸収合併を、八戸県大参事・太田広城(おおた ひろき)と画策し、大久保利通ら明治政府高官に建言した結果、合併が成立したのである。

  広大な火山灰土壌ゆえに草木も生えることがかなわず、わずかに3本の「白タモ」の木が生えていたため「三本木」と呼ばれた三本木原野の開墾は1855年(安政2)年に盛岡(南部)藩士新渡戸傳(つとう)により始められた。新渡戸は新政府に働きかけ、明治2年(1869年)に七戸藩(盛岡新田藩) 3代藩主・南部信方を知藩事(領主)にし、自身は七戸藩大参事への任命を取り付けるが、明治4年(1971年)の9月に亡くなっている。

  一般には、複式簿記は明治6年(1873年)福沢諭吉によって我が国に紹介されたのがはじまりだといわれている。しかし、延宝元年(1673年)頃から近江商人が盛岡に来て、南部藩の繁栄を築いていたようである。このため、明和3年(1766年)に近江商人の流れをくむ七戸の大塚屋忠右衛門という商人の手によって、その当時、既に近江商人が行っていた複式簿記的記帳が、七戸でも行われていたことが知られている(盛田稔著、『青森県謎解き散歩』、中経出版、p.253-254)。

 上北郡三本木村は旧斗南藩に属する。明治4年9月に野田大参事が大蔵省にあてた旧斗南藩に関する報告書によると「約1万4000人のうち、3300人ほどは出稼ぎ、あるいは離散の由にて、老年ならびに疾病の者約6000人、幼年の者約1600人、男子壮健の者約2300人」とある。
 
 更に、明治5年の旧斗南藩に関する報告書になると「現今管下にある者総計約3300戸、1万2500人」とあり、旧斗南藩から故郷の会津の他や東京・大阪など全国に転出があったようである。
 
 野田大参事が大蔵省にあてた報告書からほどなく旧斗南藩士救済策の最終案ともいうべき、「元斗南県貫属士族卒等処分方」が明治6年3月に布達されるが、その内容には「開拓場は三本木1カ所にする。他管下への送籍を望む者に対し、1人につき米2俵、金2円、資本金として一戸につき10円が支給されるなどである」とある。
 
 長谷川淸治さんは開拓場に指定された旧斗南藩の三本木から大阪府に転出して水瓶の発明をしたのであるが、「元斗南県貫属士族卒等処分方」の布達の後、旧斗南藩から他の都道府県への転出者が相次いだようである。

 明治7年3月に着任した池田種徳(いけだ たねのり)権令(第4代青森県官選知事)により、旧斗南の三本木の開拓は失敗であったとの烙印を押されている。明治天皇が明治14年に新渡戸邸に御宿泊になったのを契機に旧斗南藩士(=旧会津藩士)藤田重明らを発起人にして、1884年(明治17年)に「共立開墾会社」が設立された。

 しかし、この共立開墾会社は経営難に陥いり、渋沢栄一が大株主となって明治23年(1890年)に「渋沢農場」を開設して、共立開墾会社を援助していく。共立開墾会社は、後に「三本木原開墾株式会社」となったが1922年(大正11年)に解散となった。
 

§6 明治40年頃までの青森県の特許出願の中心は旧津軽氏領

 このコラムの第13回(ピケティの『21世紀の資本』と特許制度の役割)では、我が国最初の特許制度である専売特許条例ができる以前の明治13年頃に、弘前市に今野久吉(こんの・きゅうきち)さんという商人の発明家がいたことを紹介している。当時の「朝野新聞」には、今野久吉さんが発明した防盗機械(除盗電電機)を有栖川宮家に取り付けて公式試験をしたところすこぶる好成績であったことが記載されている。
 
 表2に示した明治時代の特許出願の内容を、当時の青森県の地図上に表現したのが図2である。オレンジ色の臼(円盤)の数は、青森県を本籍とする人が、青森県の住所から特許出願した件数を示し、緑色の臼の数が青森県を本籍として他の都道府県に寄留して特許出願した件数を示す。又青色の臼の数が、他の都道府県から青森県に寄留して特許出願した場合の件数を示す。

 図2の東津軽郡青森市の市街の位置に緑色の臼(円盤)が4枚積まれているがその内3枚は青森市栄町から福岡県に寄留して特許出願した葛西徳一朗さんの特許(特許第13109, 13504, 13505号)を示している。青森市のもう1枚の緑色の臼は青森市大町から東京市に寄留して特許出願した髙野周省さんの特許(特許第13097号)を示している。

 図2の青森市の緑色の臼4枚の上に青色の臼が1枚積まれて表示されている。この青色の臼が本籍を東京市とし、青森市堤町に寄留していた松岡貞造さんの特許(特許第12688号)を示している。
 【図2】 


 明治4年当時の弘前県(旧弘前藩)は実高ベースで1県で他4県の石高合計の3倍以上の財政力を有していたといわれているが、図2から明治時代の特許出願の殆どは、旧津軽氏領の弘前県(旧弘前藩)となる中津軽郡、東津軽郡、西津軽郡、南津軽郡から出ていることが分かる。

 特に弘前市の場合は、オレンジ色の臼(円盤)が8枚積まれ、更にその上に緑色の臼が2枚積まれた高い塔として表現されている。図2の地図の中津軽郡の領域中、弘前市の高い塔の左上に1個だけ独立して配置された緑色の臼は、新和村の田中豊吉さんの特許第13332号を示している。特許第13332号は東京市寄留の出願である。
 
 表1のテーブルの4番目の行(レコード)に出てくる中津軽郡豊田村の小山内徳進(おさない・とくしん)さんの特許(特許第11138号)は、図2の地図に示した中津軽郡の領域中、高い塔が示された弘前市街の右下となる豊田村の位置に、1個だけ独立して配置されたオレンジ色の臼で示している。小山内徳進さんについて、『青森県人名大事典』、東奥日報社刊、1969年に以下のような説明がある。

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小山内徳進(おさない・とくしん)
明治26~昭和31(1893~1956)
中津軽郡豊田村小比内(弘前市)出身。
豊田村長、中津軽郡会議長、豊田村議、同村農会長、弘前乗合自動車㈱社長の職にあった。勲7等。(東奥年鑑)
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 弘前乗合自動車㈱は、1941年(昭和16年)に 弘南鉄道自動車部を切り離して設立されたものであり、後に会社名を弘南バス株式会社としている。小山内徳進さんは表2に示した以外に、明治41年7月20日に小山内式軽便味噌製造機械の特許(特許第14770号)も取得している。

§7 明治7年に紹介された18世紀の英国の発明を、日本人が直ちに改良して特許出願

  会津藩士山本覚馬は、明治3年に京都の長州藩河原町屋敷跡に京都舎密局(しゃみつきょく)を設立、或いは伏見に鉄工所・伏水製作所を開設する等により殖産興業を実現に移し始める。「舎密(しゃみつ)」とはオランダ語の化学を意味する"シエミストリ(Chemie)"の当て字である。

  山本覚馬は幕末動乱の最中に視力を失ったため、幽閉中に口述筆記で『管見』を記載し、その内容を明治政府に訴えていたが、自ら京都府で独自に殖産興業を始めたのである。

 京都府顧問山本覚馬の進言により、京都府の初代知事長谷信篤は西陣の佐倉常七さん(織工)、井上伊兵衛さん(染色工)、吉田忠七さん(器械工)の3人の技術者を、1872年(明治5年)にフランスへ派遣した。表1に示すように太政官制Ⅲでは京都府の場合は最初から「知事」である。

 山本覚馬の殖産興業の一環として明治7年に開催された第2回京都博覧会に、佐倉常七さんと井上伊兵衛さんがフランスから持ち帰ったバッタン20挺が出品されてバッタンが広く知られていくようになる。

 当時のフランスには、既に蒸気機関によって稼動する力織機も存在していたが、非常に高価であった。又、工部省が、「工部省ニハ蒸気器械ハ、京師水理有之土地ヘハ無益ニ付、成丈手織器械沢山ニ買入可然トノ事ニ付」との判断をしていたため、手動の機械を輸入したようである(『府県史料・京都府 政治部第三 勧業類』)。

 フランスに残り技術・情報を収集し遅れて帰国しようとした吉田忠七さんは、残念なことに明治7年の帰途の途中で伊豆沖で遭難死している。
 
 「バッタン」は、1733年(享保18年)英国のJ.ケイが発明した飛び杼(ひ)装置であるが、幕末期の日本で用いられていた「高機(たかばた)」に比し、生織能率を殆ど倍化するものであった。「杼(ひ)」とは、布のヨコ糸をタテ糸の間に通すシャトルのことである。「バッタン」により製織動作が熟練を要しなくなったので均一な織物の品質が得られるようになった。

 明治20年頃から織機の改良を行っていた豊田佐吉さんは、明治23年に改良バッタン織機を作り,明治24年には最初の木製人力織機の特許(特許第1195号)を取得している。
 
 両手を使うバッタン織機に改良を加え、筬(おさ)框(かまち)を片手で前後に動かすことによって杼(ひ)を飛ばす運動と緯糸を打ちこむ運動が同時に可能となった。豊田佐吉さんの改良によって織布の生産性が4~5割上昇した。

 一方、現在の和歌山県と三重県南部に相当する紀州にも明治8年にバッタンが導入されたが、三重の松田繁次郎さんは明治18年に足踏織機である松田式織機を発明している。「足踏織機」では、踏木を足で踏んで芯軸を回すと、開口・緯糸入れ・緯打ちの 3 運動が連動して行われる。足踏織機の登場によってバッタン機で必要であった手の動きが解放された。

§8 弘前市の鹿内豊吉さんが7つの特許を取得

 表2には弘前市の鹿内豊吉(しかない とよきち)さんの名前が3回出現している。上述した『青森県人名大事典』によれば、鹿内豊吉(1869~1929)さんは、『弘前の人。鹿内式織機を創製 土岐常由の二男。鹿内幸太郎の養子となり、長女さとと結婚して鹿内を名乗った。もともと大工見習いとして習得した。技術から織機の製作に生涯をかけるようになった。』と記載されている。

 鹿内豊吉さんは、三重で発明された松田式織機の委託職工としてその機械を弘前亀甲町の自宅の工場で製造していたが、やがて弘前手織の太番手絲を使用するに適した足踏織機を完成することになった。明治34年12月に図3に示すような特許(特許第4993号)を取得し鹿内式足踏織機が制作された。

【図3】
 
 鹿内豊吉さんは、その後更に改良を続け、鹿内式一挺杼(ちょ)織(しょく)機として表2に記載した特許第11831号、特許第12894号以外にも特許を受けており、結局、合計7つの特許をうけている。ここで、「一挺杼(ちょ)織(しょく)機」とは一挺の杼が搭載された織機のことである。また鹿内豊吉さんは三挺の杼が搭載された鹿内式格子縞三挺杼織機も発明している。

 図2の地図に示した中津軽郡の領域中、弘前市の位置にオレンジ色の臼が高く積まれているのは、この合計7つの鹿内豊吉さんの特許を含めているためである。したがって、図2は忠実に表2の内容を示したものではない。鹿内豊吉さんについては、表2に示したデータ以外に、明治41年11月19日に特許第15217号(発明の名称:織機經糸送出装置)を取得しているところまでは調査したが、明治41年11月19日以降の残る3件の特許の所在については未調査である。
 
 『青森県人名大事典』には、『弘前の手織企業家はすべてこれらを採用、また第9回関西府県連合会共進会はじめ、東京勧業博覧会など、多くの共進会、博覧会で、感状あるいは有功賞を数多くうけて全国的にも高く評価された。』と記載されている。
 
 明治44年の農商務省工務局「工場通覧」によれば明治29年3月創業の弘前の鹿内式織機製造場には、職工が19名いたことが分かる。明治44年当時においては、綿織物織機の製造工場は大阪,三重,愛知,静岡に集中し,大阪には職工数128名の原田式織機製造所があり、愛知県には職工数196名の豊田式織機(株)という大規模な製造工場があり、これらの大規模な製造所が織機の改良を積極的に進めていくのであった。
 
 鹿内式織機は、昭和20年くらいまで全国で、お召や絣などの着物生地を織るのに用いられていたが、現在、桐生織物記念館に鹿内式織機の実物が展示されている。
 
 弘前商業会議所は明治44年に鹿内豊吉さんの功績を顕賞している。更に、鹿内式の普及を、「青森県織物の沿革」では、「生産ノ増加著シク従来無ニ居リシ婦女子ヲシテ最モ適当ナル副業ヲ得セシメ市内到ルトコロニ、おさ音ヲ聞カザルナク、之ニヨリ生計ヲ補フ事多大ニシテ地方重要ノ物産ヲナスニ到ツタ」と評している。

 しかし、「足踏織機」は、手織から力織機に移行する過度的な織機であった。明治29年に「足踏織機」の鹿内式織機製造場が創業した同じ年に、豊田佐吉さんは既に動力源を用いた力織機を作っている。「力織機」は、開口、緯入、緯打の主要操作と、送出、巻取の副操作人間の手から開放し、受け持ち台数が一人一台から増加できるようにした。

 力織機では、経糸および緯糸停止装置、筬框運動機構、杼替装置などの運動機構などの開発が必要になる。この力織機の運動機構を改良する過程で重要な発明を豊田佐吉さんは数多く生みだし,特に経糸の積極送り出しに関する発明は当時の繊維機械技術水準からみると,きわめて高水準のものであった。

 『青森県人名大事典』によれば、鹿内豊吉さんは『その後織物も動力機時代に入ると、むしろ製縄機、製莚機などの農機具の方が好評を拍し、製作に多忙をきわめた。』と記載されている。

辨理士・技術コンサルタント(工学博士 IEEE Life member)鈴木壯兵衞でした。
そうべえ国際特許事務所ホームページ http://www.soh-vehe.jp
 

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鈴木壯兵衞
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鈴木壯兵衞(弁理士)

そうべえ国際特許事務所

外国出願を含み、東京で1000件以上の特許出願したグローバルな実績を生かし、出願を支援。最先端の研究者であった技術的理解力をベースとし、国際的な特許出願や商標出願等ができるように中小企業等を支援する。

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