職人行政書士への道(渉外業務の) 第21回、人道的配慮をしてくれ-理想と現実の狭間で-(2)
職人行政書士への道(渉外業務の)第23回
渉外業務の仕事を受託できたキッカケ(2)2015.7.15
このコラムは、当初より24回は続けよう、と考えて、始めました。
残2回にて終了しますので、私自身が、どうして渉外業務を志したのか?
を書いています。
平成10年(1998年)ゴールデンウィーク明けに台湾、韓国、フィリピンのミニコミ誌に広告を掲載していきました。
台湾、韓国のミニコミ誌からの問い合わせは、1件もありませんでしたが、
フィリピンのミニコミ誌から反響はありました。
ですので、フィリピンのミニコミ誌は、最初は一つだけでしたが、反響があったため、
もう一つ他のミニコミ誌も掲載しました。
「無料電話相談をやります」と銘打っていたのですが、当時、それが珍しかったらしく、
反響はたくさんありました。
ただ、相談の内容は、当時の私では、わからないことだらけで、調べては、折り返し電話
をすることもあり、信用されないせいか、なかなか仕事の受託には至らなかったです。
相談を受けては、勉強する、という感じでしたので、
広告料という名の研修費を払っている状態でした。
ですので、電話の無料相談は、たくさん有ったものの、上手に説明できないせいか、
信用を得られず、仕事の受託ができませんでした。
電話だけではなく、実際に会って、仕事らしいものを途中まで進めましたが、
自分の知識不足が露呈して、断られるか、連絡してもらえないことが、2件続きました。
そうした中、あるフィリピン女性から、永住者申請について、電話相談がありました。
自宅の住所を教えてもらい、用意する書類を書いて郵送しました。
そのフィリピン女性から、別のフィリピン女性を紹介されました。
「友達から、親切な人がいる、と紹介された」と言われ、
ようやく、永住者についての申請ですが、正式に依頼されました。
平成11(1999)年の2月と記憶しています。
(永住者申請ですが、長期間の審査のすえ不許可でした。知識不足を露呈しました)
この依頼をしてくれたフィリピン女性は、当時、ボランティア活動をしていたので、
その縁で、オーバーステイの在留特別許可の出頭申告の仕事を紹介し続けてくれました
(当時は、実質、30万人以上いるのではないか?と推測されていました。
平成26(2014)年12月末では、約6万人とかなり減少していますので、この仕事は減少しています)
平成12(2000)年2月18日から退去強制にて出国後の上陸拒否期間が1年間から5年間に
伸長される法律が、交付された時期であり(H11.8.18の交付される前から、噂されていた)、
家族全員オーバーステイの家族の集団出頭が相次ぎ、
在留特別許可制度が、にわかに、新聞やテレビに取り上げられ脚光を浴びた時期と重なりました。
平成12年2月17日以前に退去強制で出国すれば、1年経過後、日本に戻ってこられる、
と考えていた外国人が多く、彼/彼女の出頭が相次いだ時期でもありました。
業界的には、特需でありました。
これがキッカケで、フィリピン人達のネットワークやタイをはじめとする他の国の人達まで拡がり、
渉外業務の仕事を依頼してもらえるようになりました。
今やろうと思っても、再現性がある「キッカケ」にはならないので、自分は運が良かったな、と思っています。
渉外業務 職人行政書士への道 のコラムを読む
http://mbp-japan.com/tokyo/orimoto/column/?jid=1302291