三陸の鉄道に捧げる頌(オード)の完結作『志津川の海』を書きました!
毎年、この8月21日には、6日、9日、15日と同様に、言問学舎ホームページの塾長ブログの記事をそのまま転載させていただいております。わたくしの敬愛する藤山一郎先生のご命日で、ことし27年の歳月を数えました。
今年の7月は、関東地方でも雨の日が多く、気温が上がらず、冷夏になるのではないかと危ぶまれた。8月1日にようやく梅雨明けが発表されたが、私は一人、はっきりした梅雨明けが宣言されなかった1993年の夏のようになるのではあるまいかと、気を揉んでいた。1993年の夏は、藤山一郎先生が世を去られた、忘れられない夏である。今日8月21日で、27年となる。
藤山先生が私に教えて下さったことは、数限りない。折にふれ思い出すのが、先生がある番組のインタビューで、「私は戦前で終わった人間ですから」と語られたお言葉である。軽々に踏み入ることは許されないから、端的に挙げられる事績のみを対比させていただくと、そのお言葉の対局にあることが、『長崎の鐘』を歌われたことではなかったか。
『長崎の鐘』は、そもそも長崎医科大学の教授でいらした故永井隆博士が、研究者の視点から長崎に投下された原爆についてお書きになり、後世の平和のために残された貴重な書物が原型である。やがて古関裕而作曲、サトウハチロー作詞で同名の歌曲が作られ、藤山一郎先生が歌われた。
藤山先生は、永井博士にお会いになり、一首の短歌を贈られたという。
あたらしき朝の光の差しそむる荒れ野に響け長崎の鐘
この短歌に、藤山先生はご自身が曲をつけられ、ステージで『長崎の鐘』3番のあとに続けて歌っていらした。私の手もとには、ビデオテープで、永井博士とのゆかりをご紹介下さったあと、この短歌を加えて『長崎の鐘』を歌って下さった映像が残されている。25年前に長崎を訪ねた時は、折からの雨を幸い、人気のない坂道で傘を差して、『長崎の鐘』をこの短歌まで、歌わせていただいた。
25年が経って、今年で長崎の惨禍から75年。25年前の私には、その2年前に亡くなられた藤山先生への「お志を受け継ぎます」の思いも大きかったのだが、8月6日以来ここに記している通り、私の行ないも一歩先のところへと、すすめるつもりでいる。その際、藤山一郎先生が残して下さった『長崎の鐘』が、私のすすむべき道を正しく示してくれるように思われてならないのである。
令和2年(2020年)8月21日
小田原漂情