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小田原漂情

国語力に定評がある文京区の総合学習塾教師

小田原漂情(おだわらひょうじょう) / 学習塾塾長

有限会社 言問学舎

コラム

忘れず、語りつづけることを

2017年8月15日 公開 / 2021年3月1日更新

テーマ:小田原漂情

コラムカテゴリ:スクール・習い事

 本日もまた、言問学舎塾長ブログの記事を転載し、常体の文章を掲載させていただきます。文末表現が普段と異なる点につきましては、何とぞご容赦下さい。


 今日は正午に、全国戦没者追悼式を見ながら黙禱し、その後出社した。玉音放送から72年、日本が平和であることを、かつてのように声高には述べかねる現況の下、だからこそ、より真剣に平和を願うために、考えなければならないことは多い。

 ポツダム宣言が出されてから、玉音放送によって日本が戦争の体制を終わりとするまで、20日ほどの時間が経過している。この間8月6日に広島、そして9日に長崎への原爆投下があり、8日にソ連の参戦があった。

 長崎への原爆投下の後、10日以降も、各地が空襲に遭っている。14日には、大阪などのほか、山口県岩国市と光市も空襲を受け、光では海軍工廠が集中的に爆撃されて、そのため多くの軍人・軍属とともに百数十名の動員学徒が、命を落としたという。大学の同窓の友人が光の出身で、亡くなった女学生のお父さんの手記を読んだことがあると教えてくれたが、同じものと思われる手記を、今日、「光海軍工廠空襲」というサイトで、読ませていただいた。

 亡くなった女学生の家では、彼女とその弟の二人が、学徒動員のため光海軍工廠で勤務していたという。空襲のあと、弟は帰宅したが、姉が戻ってこない。翌日、お父さんは汽車で光へ出向き、多くの遺体が並べられた会館で、はじめは見つけられず、再度調べ直して、金歯と内ポケットの紙片から娘の遺体を確認したのだと、手記には書かれている。工廠が壊滅した空襲で焼かれた遺体は、外面からでは見分けることができなかったのだろう。

 戦争のさなかのこととはいえ、あまりにも痛ましい女学生の死である。空襲された場所は海軍工廠で、彼女は学徒動員のためにそこにいて、命を落としたのである。しかも、後世からみれば、翌日には、戦争そのものが終わっているのだ。あと少し早く戦争が終わっていれば、という思いをした遺族が、当時どれほどいたことだろうか。

 ポツダム宣言受諾に至る経緯は、和平派と継戦派のせめぎ合いが苛烈であったから、和平にこぎつけるために、それを主導した人たちの命がけの努力があっての15日という結果なのだという見方もあろう。しかし、何ら罪のない無辜(むこ)の国民が命を落としつづける中、なぜもっと早く、と思わずにいられなかった人々の思いを知り、忘れないことが、現在のわれわれには何よりも重要だろう。

 そして、一度始めてしまった戦争を終わらせることがどれほど大変だったか、またその陰でどれほど多くの国民が命を失ったか、ということを考えれば、戦争は始めてはならないし、国家がそうした方向へ進まないよう声を上げつづけなければならないと、答えは決まっているはずである。中学生、高校生の年代の人たちが、戦地や軍需工場で命を落とした過去の悲劇を深く反省し、現在の子どもたちの未来を明るく保ちつづけるためにも。

平成29年8月15日
小田原漂情

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