中国医学には欠かせない三大古典のお話
さて、漢方の歴史シリーズも終盤を迎えてきました。
紆余曲折があっても生き残ってきた漢方は、幕末を迎えて西洋の文化が流入するとともに、衰退の一途を辿ることになります。
それが顕著に現れているのが、明治9年に実施された医術開業試験です。新しく医師として活躍するためには通らざるを得ない試験なのですが、この試験科目に漢方は含まれていませんでした。危機感を抱いた漢方を専門とする医師たちは抵抗を試みますが、徒労に終わってしまいます。
そのため、漢方はほぼ全滅状態となり、その姿をみることはほとんどなくなってしまうのです。
では、今の日本の医療において漢方が保険適応になっていることからもわかるように、どうして一定の地位を築けたのでしょうか。
それは、これから紹介する人物の活躍があったからに他なりません。
一人目に紹介するのは、和田啓十郎です。
医師として西洋医学を生んだ彼は、吉益東洞の「医事惑問」に深く感銘を受け、漢方の研究を始めます。そして、彼は西洋医学では補いきれない部分を漢方がカバーできること、また、現在の漢方が排されている医療界を憂えて「医界之鉄椎」を執筆することになります。
20年に渡る研究成果が集約されているその著作は、出版社がみつからなかったため自費出版となりましたが、増刷されるなど大きな反響を呼びました。
彼の書物によって、漢方は再び日の目をみることになります。
和田啓十郎の想いを受け取ったのが湯本求眞です。
彼は西洋医学の医師として活躍していましたが、あるとき、長女が疫痢を患ってしまいます。これを機に、西洋医学への疑問を抱くようになった彼は、和田啓十郎の著書と運命的な出会いを果たします。
それから漢方に傾倒した湯本求眞は、和田啓十郎と同じく自費出版で「皇漢医学」を執筆します。その後も2巻、3巻と出版していくにつれ、徐々に今日の漢方が形作られ、人々の関心も寄せられていきました。
彼は、一度は姿を消した漢方を組織付けただけではなく、復活させるという偉業を成し遂げました。まさに、彼がいなければ漢方がここまで私たちに貢献してくれることはなかったかもしれません。