病期にによる分類~三陰三陽~
<日本古来の医術を守る「古法派」>
日本における古代医学は、まじないや祈りが発祥であり、自然界に存在するものを経験的に薬として用いていたことは中国と同じです。
病気の完治を願って神に祈るという行為は現在でも見受けられますが、病気を治すために仏に祈る僧侶、すなわち僧医という職業も存在していました。この医薬に通じた僧医として最も強い影響を及ぼした人物は鑑真です。彼は、唐から日本に渡ってきたのですが、途中で失明してしまったことは有名な話です。
日本古来の医術が使われていた中、大陸から伝えられた中国医学は日本人の心を捉えて急速な広がりをみせていきます。その陰で日本の医術は、鳴りを潜めていくことになるのです。
このような状況では、日本の医術が失われてしまう。
と、ある人物が立ち上がります。
その人物とは、桓武天皇です。
日本古来の医術が衰退しつつあることを憂えて書かせた「大同類聚方」は、全国各地の神社な民間に密かに伝えられていた技術を集めたもので、百巻及ぶ大作です。
この書物は日本最古の和漢の処方集とされていますが、後に一部が消失してしまったため、現在まで伝えられているものは失われた部分を復元したものになります。
日本古来の医術を語るのに、もうひとつ重要な書物があります。
それは、「医心方」です。
30巻に及ぶそれは、982年に丹波康頼によって著された書物であり、日本に現存する最後の医学書になります。その内容はというと、当時の膨大な中国の医書を多数引用しながら疾病の原因や治療法、医学の倫理に至るまでまとめられてあります。
最も特徴的なのは、内科や外科、小児科など項目別に分類し、具体的に書かれているだけではなく、漢文を使って記されている点になります。
<中国の李朱医学を元にした「後世派」>
室町から戦国時代の医学を語るのに外せない人物が2人います。
そのひとりは田代三喜です。
僧侶となって医学の道へ進んだ彼は、明への留学を終えて日本へ帰国した際に「李東垣、朱丹渓らがとなえた医学(李朱医学)」をもたらしました。これが後世派の始まりとなります。つまり、後世派とは中国の金元時代の書物を中心としているのです。
帰国後の田代三喜は、当時の朝廷があった場所ではなく関東に居を構えて医療に従事していていましたが、晩年に曲直瀬道山が訪れてきます。
医師であり中国文化に精通していた彼は、田代三喜から李朱医学を学ぶと京都で医業を営みます。
そして、名だたる武将の診察を行うだけではなく、教育として医学の普及にも務め、啓迪院という医学専門学校を創設することになります。なんと、この学び舎からは800人以上が巣立っていったと言われ、医学界に大きな影響をもたらしました。