オルネラ・ヴァノー二「逢いびき」
桜の花に負けないほどの華やかさがあったといわれるのが奈良町の「元林院」で、今も「猿沢池」の南西の細い路地を入ると古都「奈良」の歴史的な情緒が感じられる町並みが広がります。
「元林院」は、「南北朝」から「室町時代」にかけて「興福寺」の別院でした。その名が町名に残り、「江戸時代」には「興福寺」の「絵所座」に所属する絵師たちが多く住むようになり、「絵屋町」と呼ばれるようになったそうです。
今も「猿沢池」近くの「率川」に「絵屋橋」があり、まさに〝芸術家〟の町の名残があります。
「明治時代」には「芸妓本位」の「花街」として栄え、特に「大正時代」から「昭和初期」にかけては200人を超える「芸妓」「舞子」が在籍し、「京都」の祇園や「大阪」の花街にも負けないにぎわいを見せていたといいます。
「東大寺」や「春日大社」「奈良公園」などでの行事にも「芸妓」が登場したり、「南市」の初戎の「宝恵駕籠(かご)」や「奈良公園」の盆踊りなどにも繰り出し、「奈良」に活気と元気を与えていたようです。
画家「絹谷幸二」さんの生家で「元林院」の象徴である料理旅館「明秀館」は、今も当時の面影を残し、「絹谷」さん自身のアトリエとしても使われています。
しかし、華やかだった「元林院」は、時代の移り変わりで今では置き屋1軒、芸妓4人で、古都「奈良」の夜のにぎわいは、すっかり鳴りを静めてしまっています。
「奈良市」などは、今年度から「元林院」復興事業に乗り出し、活力を取り戻そうとしています。
《2014.06.07讀賣新聞夕刊》
タウ・プロジェクトマネジメンツ一級建築士事務所