「大阪ハリストス正教会」:木造ビザンチン様式
昭和34(1959)年に、「大阪市」と「大阪市教育委員会」、そして「大阪読売新聞社」は、「大坂城総合学術調査団」を組織し、「大阪城」の謎の解明に乗り出したところ、その調査のなかで、思いがけない発見があったそうです。
「上町台地」の地質を調査するために行った「ボーリング調査」で、地下約9.3mの位置から「石垣」と考えられる花崗岩が確認されたというのです。
そこで、花崗岩が見つかった地点を中心に3m四方の範囲を掘り下げる調査を行ったところ、地下約7.5mの位置で「石垣」が発見されました。見つかった「石垣」は高さ約2.3m以上あり、「石垣」上端には粘土がはられ、その上面は火災によって火を受けていたということです。
そして、昭和59(1984)年、「金蔵」の東側で新たな地下「石垣」が発掘され、その「石垣」の上端は地表下1.1mという浅いところにあり、「石垣」の高さは約6mあったということです。「石垣」が築かれた地面の高さは、昭和34年に発見された「石垣」上端の高さとほぼ同じで、「石垣」が築かれた地面が「中ノ段帯曲輪」、上端の地面が「詰ノ丸」であることが明らかとなったのです。
上端の二つの「石垣」の発見によって、「秀吉」が築いた「大坂城」の「石垣」が良好な状態で存在することが明らかになったのです。しかし、世紀の大発見であったこれらの「石垣」は調査が終わると、再び埋め戻され、現在の「大阪城」では豊臣時代の「石垣」を見ることはできなくなりました。
「大阪市」は、「大坂夏の陣」から400年の節目を迎えるにあたり、「豊臣秀吉」が天下統一の居城として築いた初代「大坂城」の昭和59(1984)年に発見された「石垣」を再び掘り起し、「大阪城」の歴史を物語る新たな魅力を創出するため「豊臣石垣」の公開事業に取り組むことになった模様です。
(讀賣新聞:13.09.14)
タウ・プロジェクトマネジメンツ一級建築士事務所