「ギャルリー・サン・チュベール」(ベルギー:ブリュッセル)
京都守護職「松平容保」の建言に基づき、元治元年(1864年)、徳川幕府は大坂湾から京都に侵入する外国船に備えて、淀川左岸の「楠葉」と右岸の「高浜(島本町)」に砲台(台場)を築き、翌年には「楠葉関門」を設けました。「高浜砲台」にはカノン砲4門が設置されていたので、「楠葉砲台」にも同様に設置されていたと考えられています。
慶応四年(1868年)の「鳥羽・伏見の戦い」で、「高浜砲台」を守っていた津藩「藤堂家」は、幕府軍の不利を見て官軍に内応し、小浜藩「酒井家」が守る「楠葉砲台」に砲撃を加えたので、淀川を挟んで両台場は交戦状態になりました。「楠葉砲台」は、伏見・淀から敗走した幕府軍で混乱を極め、砲弾が尽きたので砲を破壊して退去しました。
「久修園院」の南西方に砲台跡の土塁が残っていましたが、明治末期の京阪電車の敷設に伴い、土塁の土砂は運び去れたということです。
《讀賣新聞13.06.01》
タウ・プロジェクトマネジメンツ一級建築士事務所