第十五話「当たり前を、疑え。」

目の前に置かれた、食材ひとつひとつを思う。
自然の巡りと季節の流れに育てられ、それを大切に収穫した人がいる。それを大切に運んでくれる人がいる。受け取る店があり、調理する人がいる。私たちの見えないところで紡がれた、全ての縁起がなければ、この一食にありつけなかった。
有り難い、という言葉は、有ることが難しい、という意味だ。これだけの縁が、一つも欠けることなく重なって、初めて今日の食事がある。当たり前に思える食卓は、実はまったく当たり前ではない。
合掌という、間の装置
いただきます、で開く。ご馳走様、で閉じる。この二つの合掌が、食事という行為全体を、開いて閉じる一つの呼吸にしている。
手を合わせるという行為には、精妙な機能がある。箸を持つ手を止め、両掌を合わせ、意識を今から命をいただくという事実に向ける。これは儀式的な形式であると同時に、報酬系が暴走する前に、間を差し込む、極めて実用的な装置でもある。
いただきますという言葉の重さは、作った人への感謝という表層的な意味だけではない。目の前にある米も、魚も、野菜も、つい先ほどまで生きていたものだったという事実への礼だ。そして同時に、育てた人、収穫した人、運んだ人、調理した人——見えない縁起の総体への礼でもある。
現代、この合掌を言わなくなった。あるいは、形式だけになった。これは礼儀の衰退ではなく、間を強制的につくる、最後の装置を、人類が手放したということかもしれない。合掌がなくなれば、食事は報酬系のスイッチを押すだけの行為に、純化されていく。止める理由も、感謝する対象も、そこにはない。
これは誰にも話したことがなかったが、私は合掌のあと、必ず心の中で唱えていることがある。私の住所、氏名、干支、そして豊受大神、大国主命、宇迦之御魂神、大物主——食と穀物、土地の縁を司る神々へ、感謝を捧げる。名乗りを上げてから、感謝する。漠然と「ありがとう」と思うのとは、少し違う行為だと思う。
もしかしたら、この食事が出来上がるまでの、天と地の間、人と人の間には、安心な食事を届けたいと願った人たちの想いと、自然界の奇跡の力が、流れ込んでいるのかもしれない。この力を、神と呼ぶのだと思う。
そう考えると、農家さんも、運送会社の運転手さんも、飲食店の人も、家で作ってくれるお母さんも、みんな、その神々の生きた顕現なのかもしれない。豊受大神も、大国主命も、宇迦之御魂神も、大物主も、遠い神話の中だけの存在ではなく、今日出会った、名前も知らない誰かの中に、すでに宿っている。
五感で観察するということ
噛むという行為は、食べ物を細かくする物理的作業ではない。噛むリズムが自律神経に働きかけ、副交感神経を優位にする。噛むことは、身体を、食べても大丈夫な状態に切り替える行為でもある。
味わうという行為は、舌だけでなく、嗅覚、温度感覚、食感、複数の感覚を統合する高度な作業だ。集中して味わう時と、上の空で食べる時とでは、脳が受け取る情報量がまるで違う。
香りは、消化液の分泌を促す。美味しそうな匂いを感じた瞬間、身体はすでに消化の準備を始めている。
大切なのは、何を感じるべきかではなく、何を感じているかに、意識を向けることだと思う。食材を通じて自分を観察する。食事もまた、その瞬間の自分を記録し、映し出す装置になっている。
循環させるということ
ご縁と命をいただくことは、受け取って終わりではないと思う。受け取った力を、どう自分の中で循環させ、次にどう手渡すか、という問いまで含んでいる。
一つの食事の中で、合掌によって円環が閉じる。でもそれだけでなく、その力を受け取った自分が、今度は何を、誰に手渡すか。円環は、次の円環へと繋がっていく。いただきますは、その連鎖の、小さな入り口なのだと思う。
次回は、この「なぜ」という問いを辿ることで、渇望と行の違いが見えてくる、という話をしたい。


