美と間。——體と自然と、間について(全文掲載)by Masumi| nice life studio

空腹は、胃から分泌されるホルモンが引き金になる、純粋な生理現象だ。これに従えば、適量で自然に満足する。行為そのものが完結する。食べる、味わう、満足する、終わる。円環が閉じる。
一方、糖や脂肪、強く加工された食品は、脳の報酬系を直接刺激する。ここで起きているのは、栄養が必要という信号ではなく、もっと快感が欲しいという信号だ。満腹でも、脳はまだ欲しいと要求し続ける。円環は閉じず、螺旋状に膨らみ続ける。
見分ける手がかりは一つだけある。身体のサインは、満たされると静かになる。依存のサインは、満たされても静かにならない。
狩猟採集という、身体的プロセス
なぜ、この違いが生まれるのか。狩猟採集が主流だった頃の人間を思い浮かべてみたい。歩き、見渡し、耳を澄ませ、息を殺し、その日の糧を手に入れる。おそらく、生きる行為そのものが、喜びだったはずだ。
このプロセスには、長い身体的な緊張と弛緩がある。歩く、探す、待つ、仕留める。この過程そのものが、報酬を受け取る前の助走になっていて、糧を得た瞬間の喜びを、何倍にも大きくしていたのだと思う。プロセスの深さが、報酬の質を決めていた。
現代の狩猟は、経済活動に置き換わった。でも、そのプロセスから、身体性が抜け落ちている。画面の前に座り、数字を動かすだけで、報酬が得られる。歩く、見渡す、息を殺すという、身体を通した緊張と弛緩のリズムがないまま、結果だけが与えられる。
外部からの刺激で得られる快楽は、実体験を通して得られるものに比べて、満ち足りる度合いが低いと感じている人は多いと思う。身体的プロセスを経ていない報酬は、脳を一時的に満たしても、身体全体は満たされない。だから「もう一回」が止まらなくなる。
コンビニで数分で買える食事は、経済活動という名の狩猟の、最終地点だけを受け取っている状態だ。狩る、探す、選ぶ、調理する、待つ——このプロセスをすべて省略した先に、報酬だけがある。だから、いくら食べても、身体全体の満足には届きにくい。
器のすり替え
もう一つ、大切な構図がある。満たすべき器のすり替え、という構造だ。
孤独という器を、食べ物で埋めようとする。承認欲求という器を、いいねの数で埋めようとする。劣等感という器を、鶏の胸肉一キロで埋めようとする。どれも、本来満たされるべき器とは、まったく別の中身を注ぎ込んでいる。だから、どれだけ注いでも、本来の器は空のままだ。
これは、単なる勘違いではないと思う。本当の問題——孤独そのもの、満たされなかった承認欲求そのもの、劣等感の根っこにある経験そのもの——に向き合うのは、痛みを伴う。だから、痛みの少ない代替行為へと、意識を逸らしてしまう。依存は、目を逸らすための、よくできた技術でもある。
厄介なのは、現代社会が、この「すり替え」をいたるところで用意していることだ。孤独を感じたら、コンビニがすぐそこにある。承認が欲しければ、スマホがすぐそこにある。本当の器に向き合うための時間や環境より、すり替えを差し出してくれる仕組みの方が、圧倒的に手に取りやすい場所にある。
呪いは、本物のふりをして忍び込む。満たされない器に、間違った中身を注がせ続けることで、本当の問題を、いつまでも先送りにさせる。
次回は、この身体感覚を取り戻すための、もっとも身近な装置——合掌と、噛むことについて書いていきたい。
「食事という行」は毎週金曜日に掲載します。


