第二十話「身体が、答えだ。」

同じ規律的な食事でも、動機によって、まったく別のものになる。
例えば、筋肥大を目指して、鶏胸肉を毎日一キロ摂り続ける日々。これは行のように見えて、常に劣等感を刺激され、それをモチベーションに生きる癖になってしまうことがある。これは、いくら食べても満たされない、渇望の反復だ。
なぜを、繰り返す
なぜ、筋肉を大きくしたいのか。もてたいから。なぜ、もてたいのか。もててこなかったから。
なぜを繰り返す作業は、固定した自己像を、時間軸に沿って解体していく。すると見えてくるのは、筋肉そのものは本質ではなく、過去のある瞬間に負った欠落感を埋めるための、後付けの手段だったという構造だ。
多くの人が、最初の層——筋肉を大きくしたい——で止まって、そこにひたすら努力を注ぎ込む。鶏胸肉一キロという行動は、実は「もてなかった」という古い記憶への、間接的で終わりのない返済行為になっている。
答えを急がない
なぜを追いかけて、迷いに突き当たった時、多くの人は無理やり答えを作ろうとする。分からない状態に耐えられないからだ。
でも、答えを出すことすら、その癖であることがある。無理に答えを出さず、迷っている自分を、ただ観察してみる。答えという固定化を急がせず、識が揺れている状態そのものを、許可する。
答えより、迷いを観察できたことの方が、時に価値がある。同じ鶏胸肉一キロを、埋めるために食べるのと、気づいた上で、今の自分が心地よいと思うから食べるのとでは、同じ行動でも、中身がまったく別物になる。渇望が、行に変わる瞬間だ。
規律に見える渇望
ここが本当に怖いところで、この形式は、規律=正しさという外見を持っているから、本人も周囲も、良いことだと錯覚しやすい。暴飲暴食は誰の目にも消費構造だと分かるが、鶏胸肉一キロは、ストイックで立派だと評価さえされる。固定化された自己像への執着が、社会的に承認された形で温存されてしまう。
同じ量、同じ食材でも、食べている瞬間、欠乏に向かっているか、今に向かっているか——そこが分岐点になる。
次回は、この「答えを急がない」という姿勢を、私自身がどこで身につけたのか——答えのない現場で掴んだものについて書いていきたい。


