第二話「消耗は、設計されている。」

移りゆく意識が、月を見上げる間さえ奪う。
この後の天気。次の電車の時間。サッカーの結果。夕飯のメニュー。子供の将来——。
毎日、膨大な量の情報の波が、脳の中を満たしていく。絶え間なく移りゆく意識。鳴り止まぬ頭の中の声。私たちは自分を省みる間もなく、日々を生きてきました。
美しい體とは、何だろう。
モデル體型と言われる、頸や腰の径、頭と胴体、手足の長さ。黄金比率的に語られることがあります。
でも、この問いを掘っていくと、もっと手前にある問題に行き着きます。
美しさとは、そもそも何なのか。
自然とは、なんだろう。
私は、美しさとは「より自然であること」だと思っています。
では、自然とは、そもそもどのような状態を指すのでしょう。
私の考える自然
自然を勘違いしてはいけません。都会にいながら月を読む人もいれば、森に暮らしながらマネタイズに悩む人もいます。
自然とは、場所ではなく、関係性の問題だ。
コンクリートに囲まれていても、月の満ち欠けという大きな循環に自分の内側のリズムを合わせていれば、それは自然です。木々に囲まれていても、経済という循環に呑まれ、自分の内側の循環と切断されていれば、それは不自然です。
不自然の側から、逆算してみます。不自然とは、外部の基準や意図によって、内部の応答が上書きされている状態。だとすれば、自然とは——外部からの力を受けながらも、内部の秩序が自律的に応答し続けている状態、と言えそうです。
アニメ「チ。」を見た方も多いのではないでしょうか。これは、天動説と地動説の話に似ています。天動説は、人間(地球)を中心に置き、そこに現象を合わせるため、複雑な帳尻合わせを延々と積み重ねました。地動説は、中心を手放した瞬間に、同じ現象がずっとシンプルに説明できてしまった。無理に削るのではなく、すでにそこにある筋道に沿わせること。これを、理にかなう、と呼ぶのだと思います。
自然の理に逆らわず、重力を受け入れ大地へ流し、反力をいただきそれを動きとして昇華している體は、自ずと美しい。不安がない、余計な工作がいらない、自分を信頼し、委ねきっている。
自然界に宿る美
咲き誇る花を、あえて醜いと罵る人間はいません。野生の動物に、二重顎も反り腰もありません。
花にも動物にも、比較も基準もないのです。ただ、その場所で、与えられた自然の力に応じているだけ。
私たちにも、同じ自然の力が確実に流れています。ホメオスタシスをはじめとする自律神経——自己と環境を調和させ、常にゼロへ戻ろうとする力です。
面白いのは、その花や動物には向けない「見苦しい」という視線を、人間だけが自分自身(あるいは他者)の體に向けてしまうことです。これはおそらく、人間だけが「思案」——黄金比、他者比較、メディアの基準——という、自然の力とは別の力にさらされているからだと思います。
間に、自然の力は宿る
その関係性が入り込む場所を、私は「間(ま)」と呼びたいと思います。
音楽の間がなければリズムが死ぬように、體と大いなる自然の間、都会の人と月の間、この間にこそ、自然の力は宿ります。
間の中に、自然の力は宿る。
自然の力が働きやすい環境の體は、結果、美しい。
筋肉の繊維の間がなければ、血管やリンパや神経枝は圧迫され、循環は鈍ります。循環が鈍ることで、ターンオーバーの質が下がる。肌の角質は、押し潰されそうな筋膜の間からの、體のサインなのだと思います。
神経枝の圧迫は、それだけに留まりません。痛みという形で現れることもあれば、伝達そのものが妨げられ、動作の滑らかさを奪うこともあります。凝り、痛み、動きにくさ——これら全部、根っこは同じ「間の圧迫」なのかもしれません。
不調とは、慢性的な緊張。
慢性的な緊張とは、間が失われること。
美しさは、目的にできません。「美しくなろう」として體を作ることはできない。できるのは、間に自然の力が働きやすい状態を用意すること——つまり、整えることだけです。美しさは、その副産物として、後からついてくる。
黄金比という数字も、本来は自然の副産物にすぎません。それを後から目標として體に当てはめようとした瞬間、間は塞がれ、自然の力は働けなくなります。
美しいか、見苦しいか
昔の日本人は、まさに「美」を追求する民族でした。
物事を、正しいか悪いか、では判断しない。美しいか、見苦しいか、で見る。「すがるは見苦しいぞ」——これは絶対的な規範ではなく、観測者との間に立ち現れる判断です。清らかか、穢れか。穢れとは、氣が枯れること、循環が滞ることだとも言われます。
正邪が個人の内側だけで完結するのに対し、美醜は常に、観測者と対象の「間」で立ち現れます。分断されたどちらか一方を見るのではなく、その間に残された僅かばかりの間を、釣り合わせる。
お互いの軸を尊重しつつ、軸と軸の間を釣り合わせること。これは、日本という文化の中で大切に伝えてきた技術であり、感性です。世界から、清らかさを求め、空気を読むことができる民族として称賛されるのだとしたら、それは民族の優劣ではなく、大切に受け継いできたものそのものが、誇りなのだと思います。
なぜ、上手くいかないのか
他者との比較。黄金比を目指すボディメイク。メディアが次々と生み出す流行りの健康法。
そして、歩行が衰えることを「筋力の低下」と捉え、筋力トレーニングで解決しようとする発想。
これらは全部、同じ根を持っています。結果を、目的として先取りするという構造です。
本来、歩行は視覚・前庭覚・固有受容感覚・小脳・脳幹が統合されて生まれる、高度な神経ネットワークの産物です。筋肉は、その出力先にすぎません。歩行の衰えとは、多くの場合、筋力ではなく脳機能のネットワークの低下なのです。
だとすれば、出力(筋力)だけを鍛えても、根本にある「感覚と運動をつなぐ間」は取り戻せません。多くの人が、様々な挑戦をしても、なかなか上手くいかない理由は、ここにあるのかもしれません。
美しさを目指した瞬間、間は塞がれ、自然の力は働けなくなる。だから、目指せば目指すほど、遠ざかる。
「何このお腹っ!?」——鏡の前で、そう声が漏れたことはありませんか。
もしかしたらそれは、比較でも基準でもなく、體が発する正直な直感だったのかもしれません。ただ、その後、私たちはその違和感の「原因」を、黄金比や他人の體型のせいにしてしまう。
本当は、内側の循環が滞っているという、體からの通知だったかもしれないのに。
気づく力
朝日。夕陽。雄大な山々が織りなす景色。
これらは、いつもそこに在り続けています。
だとすれば、美しさとは、新しく作り出すものではなく——すでにあるものに気づく力なのかもしれません。
美しさは、體や自然現象の側だけの性質ではなく、それに気づける「間」を、こちら側が持てているかどうかの話でもあります。月は変わらずそこにあるのに、見上げる間がなければ、美しさは存在しないのと同じになってしまう。
氣づく側と、氣づかれる側。両方の状態が噛み合った瞬間に、美しさは立ち現れる。それは、歩行が成立する瞬間とも似ています。地面は、ただそこに在るだけでは足りない。體がその重力と地面を、正確に「読める」瞬間に、はじめて歩行は自然に成立します。
體は、脳へ無数のメッセージを送り続けています。
内臓感覚、固有受容感覚、皮膚感覚、前庭覚——絶え間なく届くその声を、私たちはいつしか、既読すらつけずに見過ごすようになりました。読み取るための間とは、體が送っているそのメッセージに、ふと目を向ける瞬間のことなのかもしれません。
先ほどの、お腹の話を思い出してみましょう。「何このお腹っ!?」という直感そのものは、體からの正直な通知だったのかもしれません。氣づく力とは、その通知を、他人の物差しで誤読する前に、まず素直に受け取る力のことなのだと思います。
結び
ホメオスタシスもまさに自然界の法則と言えます。
この不束者の體にも、その法則は、今日も変わらず働き続けています。
胸に両手を当て、目を閉じて、手のひらの温かさを、鼓動が刻むリズムを、呼吸を感じてみてください。
そして、今日まで共に歩んでくれたあなたに、心から感謝を。
今、静まった意識が、月を見上げる間を与えてくれる。
Masumi
パーソナルトレーナー| nice life studio(那覇・沖縄)


