親として ~ある事例を通して~
いのちの値段
学生の本分は勉強。
疑いもなく、学齢期にある若者は学校での生活を送っています。
成長・発達するために学習することは不可欠であることは誰もが認めることです。
多くは、学習と勉強(学科)を同一とし、学科の成績を上げることで由としているのでしょうか。
そのためには、塾を利用するのもあたり前のようになってきています。
本来の目的は、わが子が成長するため、人格を作るため、豊かな生活を送られるようにするため、であるはずなのでしょう?
いい成績を取って、いい高校・大学に入って、いい職業に就き、しあわせな家庭、人生を送る、ためですか?
それでは学校では何をするの、という問題はありますが、塾に対する費用は結構かかる場合があります。
わが子の現状の心身能力の許容量はそっちのけで、お金をかけているのだから行ってあたりまえ、成績を上げてあたりまえ、そのためには、好きなゲームやスマホやパソコン機器などは与えているじゃないの、いうことを聞いているじゃないの、といった事例のなんと多いことでしょう。
こころの悩みは思春期にはよくあることだから、そっとしておいてあげることが定石という都合のよい理由で距離をあける家庭もよく見受けられます。
親のプレッシャーを感じて訴えてきたとしても、子どもの弱さ、努力の足りなさ、甘え等という旗印を掲げ、こころのケアといった目に見えないものにお金をかけることを是としない家庭。
そのこともわかってしまう子どもは何も言えなくなる悪循環を繰り返します。
なかなか成果が上がらないことで自分を責める若者、途方に暮れて自暴自棄的になる若者、勉強以外にお金をかけてほしいと言えない若者、自分は病気ではないという思いで不登校にさえなれない若者(不登校は病気ではないのですが)等々、まだまだいろいろな状態像を呈してきます。
共通しているのは、こころだけでは賄いきれないので、身体が肩代わりをしだし体の不調が前景になります。
そのことで病院に行けば検査データ上異常なしで、若者自身の問題ということにされ、再度目に見えないものにはお金をかけることに躊躇する例は多いです。
先行きが見えず、死のうと考えてしまう事例もあります。
成長・発達を進めるには物だけでない、数字にできない、目に見えない厄介だけれど不思議な「こころ」を扱わないとならないことです。
生きていてよかった、あなたのもとに生まれてきてよかった、そう思いたい若者がなんと多いことか。
― いのちに値段が通用するでしょうか。