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熱中症で倒れた沖田総司?

佐藤浩明

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テーマ:熱中症

熱中症で倒れた沖田総司?

おはようございます。福島市 さとうクリニック内科・消化器科の佐藤です。今朝は’熱中症で倒れた沖田総司?’というお話しです。

 熱中症で倒れた新撰組沖田総司
 新撰組を一躍有名にしたのは京都三条小橋の旅籠池田屋に集まった浪士を襲撃した事件である。梅雨のさなかとあって体調を崩した隊士も多かったが、土方歳三を頭とする25人と、近藤勇が引き連れた沖田総司、永倉新八、藤堂平助、近藤周平の5人の二手に分かれて出動した。近藤隊が浪士の謀議場所である池田屋を突きとめたのは数時間の探索の後だった。5人は宿の出口を固めてから2階へ上って斬り込んだ。激闘は2時間に及び、後半からは土方隊が合流した。殺害されたのは浪士7名と新撰組の2名だった。

 作家子母沢寛の『新撰組始末記』によると、沖田は2名を斬り伏せた後、持病の肺病が悪くなりひどい喀血をおこして昏倒したとある。この作品が発表されて以来、池田屋で沖田が倒れたのは喀血によるという説が流布するようになった。新撰組の生き残り隊士永倉新八の遺談『新撰組顛末記』では、沖田が大奮闘のさなか、持病の肺患が再発して打ち倒れたので表へ出し、手厚く介抱すると間もなく回復したという。

 『京都町人日記』によると同日の天候は「双天」とあり、二つの天気、つまり晴と曇の蒸し暑い日だった。新撰組の引き揚げは翌日午前10時からで、沖田も仲間と一緒に壬生の屯所まで3キロの道程を歩いて戻っている。だが大量の喀血をした病人が翌日に3キロも歩いて帰れただろうか。沖田は事件の4年後に27歳で死去したが、喀血するほど結核が進行していたならば激務をこなしつつその後4年も生き永らえたとは思えない。

 慶応元年(1865年)西本願寺で幕府医官の松本良順が新撰組の健診を行い、この健診の後、近藤勇は広島へ出張するが「自分に若しもの事があれば剣流は沖田に継がせよ」と言い付けた。沖田の結核が重ければこんな書置きをするはずはなかろう。沖田が発病したのは慶応3年2月頃という史料があるが、病名や死因が結核だったという証拠もなく、本当に結核だったかどうかわからない。という訳で沖田の喀血についてわたしは数々の疑問を抱く。夏の京都盆地は異常に蒸し暑い。暑い部屋の中で長時間水分補給もせずに激しい武闘をすれば、意識が朦朧となっても不思議はない。わたしは沖田が体力を消耗して熱中症をおこし、呼吸と循環不全に陥って昏倒したが、やがて回復したものと解釈している。
* 篠田達明先生(愛知県心身障害者コロニー名誉院長)の医療コラムを抜粋し、一部改変

 先日の京都でも39度前後を記録した様ですが、元々京都は暑さでも有名なところですが、この当時も酷暑で剣豪の沖田総司ももしかすると熱中症で倒れた可能性も否定できませんね。

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専門家

佐藤浩明(内科医)

さとうクリニック内科・消化器科

患者さんに寄り添う医療体制で、「経鼻内視鏡検査」に取り組み、内科・消化器疾患の徹底した検査と治療を行います。信条の「人と、地域と向き合う医療」という姿勢を守り、より高い専門性をもって地域に貢献します。

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