仕事に対して推進力のある人が陥りがちなデメリットとその対策
産業カウンセラーの鎌田千穂です。
チホズスタジオは福岡市に拠点を置き、オンラインや訪問をあわせた産業カウンセリングを実施。
他にも実施していることは
- 産業カウンセリング及びコンサルティング。
- 人材育成の仕組みづくりのための自発的行動を促す教育研修。
- 「業務改善・組織変革」の企画提案実施。
- チホズ文字分析による人材分析及び提案。
さぁ、今週も金曜日になりました。
福岡を語る上で、忘れてはならない偉人伝。
毎週金曜日のお約束です。
最近、そんなことがあるんだと楽しみにされている方が多くて、調べてはボチボチと書いています。
おかげで、私の雑学も磨きがかかり始めました。
(๑ˊ͈ ꇴ ˋ͈)ァ‘,、
川上音二郎――その名を聞けば、明治の自由民権運動の象徴「オッペケペー節」が思い浮かぶ方がいるかもしれません。
70年前に海外で称賛されたリズムも、今では一部の方の記憶に残るリズムとなりました。
また、どんな人物なのかすら、「名前を聞いたことはある」程度。
一部の方々の中で存在を認識されていることで教えたつもりで語ることはない。
そんな忘れ去られる人物になってしまっているのではないでしょうか。
軽妙なリズムに乗せた歌だけでは川上音二郎の偉業を語り尽くすことはできません。
政治活動家から落語家に転身した後演劇人として名をなした川上音二郎。
テレビやラジオもレコードもない時代に、その歌は全国に広まり、明治期最大の流行歌の一つを生み出し、近代日本における演劇の未来を切り開いた存在です。
また「日本最古のラップ」ともいえる川上音二郎の歌。
フランス万博で称賛を浴びたエピソードもまた、川上音二郎の生涯を語るうえで欠かせない物語です。
波乱に満ちた生涯とその革新性
少年時代と旅立ち
1864年、博多の藍問屋に生まれた川上音二郎。
14歳で家を飛び出し、大阪、そして東京へと旅をする中で、多くの人々や社会の矛盾に触れました。
給仕や巡査などの職を経て、自由民権運動に加わり、激しい言動からたびたび投獄されます。
ですが、川上音二郎の熱い情熱は失われることなく、やがて演劇の世界へと転じていきます。
オッペケペー節:日本最古のラップ?
川上音二郎が寄席で披露した「オッペケペー節」は、韻を踏む軽快なリズムと風刺的な歌詞で庶民の心を掴みました。
オッペケペー節
権利幸福嫌いな人に、自由湯(じゆうとう)をば飲ましたい
オッペケペー オッペケペー オッペケペッポ ペッポッポ
堅い裃角取れて マンテルズボンに人力車
いきな束髪ボンネット 貴女や紳士の扮装(いでたち)で
表面(うわべ)の飾りは立派だが 政治の思想が欠乏だ
天地の真理がわからない 心に自由のたねをまけ
オッペケペー オッペケペー オッペケペッポ ペッポッポ
権利幸福嫌いな人に、自由湯をば飲ましたい。
このようなフレーズは、現代のラップに通じる要素を持ち、韻を踏みまくるリズム。
川上音二郎を「日本最古のラッパー」じゃないだろうかと感じてしまいます。
石村萬盛堂本店は川上音二郎の実家の面影を残す
芸事好きの博多は、博多祇園山笠の飾り山に何度も登場するほどの人気者。
その川上音二郎の実家の面影が今も残っています。
それは明治38年に創業した「鶴乃子」や「鶏卵素麺」で名の知られた石村萬盛堂の本店。
石村萬盛堂が、操業開始した建物こそが川上音二郎の実家であった長屋です。
もともとの家屋は福岡大空襲によって焼失。
ですが、その面影を残したまま再建されることで、今でもなお石村萬盛堂本店にその姿を見ることができます。
世界へ広がる足跡:パリ万博の成功
川上音二郎は1900年、フランスのパリ万博に招かれ、日本文化を紹介する場で「オッペケペー節」を含む舞台を披露しました。
そのパフォーマンスは、ユーモアと力強いメッセージ性を兼ね備え、観客を魅了。
異国の地で成功を収めた川上音二郎の姿は、日本文化の大使としても輝いていました。
川上音二郎の声ではないようですが、その時の音源がYouTubeにアップされていたので下記に添付しますね。
音源は1900年(明治33年)パリ万博での川上音二郎一座の公演をイギリスのグラモフォン社が録音したもの。
ノイズが酷いのはご愛嬌ということで。
※ 川上音二郎の声ではありません。
フランス滞在中、川上音二郎は欧米の俳優たちが一流の文化人として認められる姿に触れ、日本における俳優の地位向上や劇場の近代化への思いを強めます。
帰国後の奮闘と茅ヶ崎での挑戦
帰国後、川上音二郎は相州茅ヶ崎を拠点に活動を展開。
そのひとつが英国の古典、シェークスピアの『オセロ』でした。
誰もが理解出来るようにと、同時代の日本になぞらえ大胆に改変することで賛否両論になるほどの話題性を高めています。
地域住民への貢献活動を行うなど、単なる俳優の枠を超えた存在感を発揮していたようです。
川上音二郎の妻・貞奴が舞台で初の日本女優として輝いたのも、川上音二郎の影響があってこそです。
波乱万丈な幕引き
晩年の川上音二郎は、大阪に自らの劇場を建てるという大きな夢を実現させました。
ですが、過労と病に倒れます。
妻の貞奴は危篤に陥った川上音二郎を病院から劇場に運び、命がけで作った舞台の上で生涯を閉じています。
まとめ
川上音二郎の人生は、挑戦と革新の連続。
「オッペケペー節」を通じて、日本の社会に自由と権利の重要性を訴えた。
そして、演劇の可能性を広げた川上音二郎の足跡は、今なお多くの人にインスピレーションを与えています。
博多座を見つめる用に作られている上川端通りの入り口にひっそりとある川上音二郎銅像。
その功績を知ることで、私たちは自らの可能性や未来への希望を見出せるのかもしれません。