第34回 「結露するから冷凍設備が止められない?」のでは、知恵が足らない
第53回で紹介した「フリーサイズ落し蓋」の他に、売上60~80億円の「初恋ダイエットスリッパ」と売上65億円の「糸くず取りネット」を挙げ、これらを「主婦の3大発明」とする例があるが、注意が必要である。
先ず、フリーサイズ落し蓋は実用新案権であるので、「発明」というよりは「考案」と呼ぶべきである。次に、初恋ダイエットスリッパの発明者と称される中澤信子さんは、特許権を獲得していないので、「主婦の3大発明」の一人に加えるにはかなり無理がある。
中澤さんが特許権を獲得しているか否かは、(独)工業所有権情報・研修館(INPIT)が提供する無料の検索サイトである特許情報プラットフォーム(J-PlatPat)で検索すれば簡単に判明する。中澤さんは、実用新案権、意匠権の権利も獲得していない。
「初恋ダイエットスリッパの特許で○○億円の利益を得た」ように紹介するメディアは、知的財産権に対する無知を露呈しているのではなかろうか。メディアの報道は最低限J-PlatPatを検索して対応する知的財産権が存在するのか否かを確認する慎重さが必要であろう。
§1 「初恋ダイエットスリッパ」はブランド戦略の成功例
§2 ブランド連想による他社の参入障壁の構築
§3 発明や考案等のレベルとヒエラルキー
§4 中澤さんの後に、踵の部分がないスリッパが特許された
§5 マーケティング戦略における3C分析
§1 「初恋ダイエットスリッパ」はブランド戦略の成功例
神奈川県鎌倉市の中澤信子さんの特許出願(発明の名称:「踵を支えない履物」)は、図1の中央の円内に示すような構造をしているが、特許権、実用新案権、意匠権のいずれの権利をも獲得していない。
【図1】中澤さんの特許出願(特願平02-119593)は新規性がないとして拒絶された[ 出典:J-PlatPat] (中央は中澤信子さんの特開平3-131201号公報の第2図)
後述する図2に示すように、中澤さんの出願は平成元年(1989年)7月20日に最初に意匠として出願され(意願平01-026860)、次に平成2年(1990年)5月9日に意匠出願から特許出願に変更されたが(特願平02-119593)、平成5年5月14日(起案日)に新規性がないという拒絶理由通知を受けている。
即ち特許庁の審査において、図1の左上に示したような、東京都北区の政所さゑ様を考案者とする実開昭47-028151号(出願1971/04/12)の「ビユ-テイ-サンダル」が既に先行技術として存在することが指摘されている。更に、図1の右上に示した佐野市の田中三司様を考案者とする実開昭48-003652号 (出願1971/05/25)の「カツト底ピ-チサンダル」の存在も指摘された。
3つ目の先行技術は、図1の左下に示した豊中市の鈴木秀司様を考案者とする実開昭58-154604号(出願1982/04/09) の「踵の乗る部分のないサンダル」である。4つ目の先行技術は、図1の右下に示した、町田市の生駒猛隆夫様を考案者とする実開昭59-171503号 (出願1983/05/04)の「猫足サンダル」である。
この4つの先行技術が指摘された拒絶理由通知に対し、中澤さんは応答せず、更に平成5年8月11日に特許出願から意匠出願に変更する(意願平05-024688)という迷走をした後、結局最終的には、権利化に失敗している。
【図2】中澤信子さんの「踵を支えない履物」の権利化への迷走の経緯
図2から分かるように、大ヒット商品とされる初恋ダイエットスリッパは特許権も意匠権も取得していないが、それにも関わらず、巧みなマーケティング戦略の工夫と事業努力で成功した例である。初恋ダイエットスリッパはネーミング(ブランド名)が良くて大ヒットしたと言われている。
即ち、「ダイエットスリッパ」という商品名だったら、ここまで売上は伸びなかった可能性が指摘されている。
しかし、中澤さんは、「初恋ダイエットスリッパ」の商標権も取得していない。
§2 ブランド連想による他社の参入障壁の構築
中澤さんが特許権、実用新案権、意匠権、商標権のいずれの権利も獲得していない。それにも関わらず、消費者の心の中にブランド連想を構築して、他社に対する強力な参入障壁を構築してしまったのが、中澤さんが製品を大ヒットさせた原因であろう。
「ブランド連想」とは、消費者がブランドについて「解釈」し「想起」する一連の連想である。例えば、複写機と言ったら「ゼロックス」を連想し、コーラ飲料と言ったら「コカ・コーラ」を連想するようになることである。
一般にいわれる「ブランドイメージ」は「健康によい」「信頼できる」や「親しみやすい」など形容詞の概念であるのに対し、「ブランド連想」は必ずしも「イメージ」に限定されない、抽象的な概念、イメージや具体的な商品、サービスに至るまで幅広いものである。
中澤さんが商標権を取得していない「初恋ダイエットスリッパ」は、神奈川県の産業労働局労働部労政福祉課が認定している2016年の第3回神奈川なでしこブランド認定商品にも選定されている。法律的な権利としての「商標」と、マーケティングにおける「ブランド」とは別のものということを説明する良い例である。
商標権で保護されていなくても、「初恋ダイエットスリッパ」というすばらしいネーミングのブランド連想を獲得したのである。図1から分かるように、踵の部分がないスリッパを考案したのは、中澤さんではない。
しかし、他社に先駆けて新しい踵の部分がないスリッパの商品化に成功し、ブランド連想で新しい市場を創造した中澤さんは、市場における競争上の優位性である「先発優位性」を構築したのである。
中澤さんの特許出願は「新規性なし」として特許法第29条第1項で拒絶されているので、オリジナルであることの主張は難しかったはずである。
図1から分かるように「発明品」というにはかなり苦しい背景事情があったにも関わらず、巧妙に、「初恋ダイエットスリッパ」は発明品としてのブランド価値を高めてしまったのである。
スリッパの色や模様等のデザインを工夫し、中澤さんはメディアや講演等を利用して巧みにアピールし、先発ブランドであることを強調することで先発優位性を獲得したのである。
§3 発明や考案等のレベルとヒエラルキー
中澤さんが特許権、実用新案権、意匠権、商標権のいずれの権利も獲得していないので、ライバル企業が参入する余地はあったはずである。
しかし、多くの後発の類似製品は消費者から「本当に新しい」製品と見なされることなく、単なる後発組の踵の部分がないスリッパの一つとして片付けられてしまわれたのである。
冒頭で初恋ダイエットスリッパが「発明」といえるか疑問を呈したが、発明、考案や創作等のワークプロダクトには図3に示すような広がりがある。
【図3】発明や考案等のワークプロダクトのレベルと広がり
図3に示した発明、考案、創作等のワークプロダクトの広がりを示す三角形の内、一番底辺に位置するのが灰色で示した主観的な発明等である。
発明者本人が「発明である」と認識していても、消費者が発明としてのオリジナリティや良さを客観的に認めない限り、事業収益は見込めない。
図3の灰色の三角形の対極に位置するのが、オレンジ色で示した発明であり、特許庁のお墨付きを得て「特許権」が認められ、法律的に保護される発明である。
特許庁のお墨付きを得るためには単に新しいだけではなく、新しさのレベルが、容易に思いつかないほど優れていなければならない。容易に思いつかないほど優れた新しさを、このコラムの第1回では「進歩性」という用語で説明した。
第1回でのコラムで説明したように、「進歩性」とは、「技術的進歩」を意味するものではない。「進歩性」とは「発明的飛躍」「意外性」「斬新性」「非自明性」「独創的ステップ」「創作の困難性」等の意味である。
第41回においては、「日本特許法の父」と呼ばれる清瀬一郎先生の「進歩性」の説明を紹介した。第41回の図1を用いて、特許法に定める「進歩性」とは、先行技術(従来技術)からの隔たりが、「不常識」なレベルであるか否かであるかで判断されると説明した。
今回の図3の黄色の三角形のうち破線で示したレベルよりも上の発明は、新しさはあるが、新しさが「不常識」なレベルに到達していないので、特許庁が特許として認定しない発明である。
図3の黄色の三角形には、破線で示したレベルよりも下の発明もある。発明としての新しさはないが、デザイン(意匠)として権利化が出来る場合や、商標権で保護できる場合である。
更に、現在の実用新案法は無審査主義であるので、新しさがなくても登録可能である。あるが、新しさが「不常識」なレベルに到達していないので、特許庁が特許として認定しない発明である。
なお、あるインターネットサイトで「特許庁より独創性が認められ登録商標されました」と記載している例があるが、間違いである。商標法は創作性、オリジナリティや独創性を保護しているのではなく、標識としての信用を保護しているに過ぎないので、注意が必要である。
灰色の三角形の上のレベルとなる緑色の三角形が特許権、実用新案権、意匠権、商標権等の知的財産権では保護が期待ができないが、「初恋ダイエットスリッパ」のようにマーケティング等の工夫や努力」で事業収益を上げる場合である。
「初恋ダイエットスリッパ」の場合は、たまたま運良く成功したが、後発組の参入を防ぐためには、黄色の三角形やオレンジ色の三角形のように知的財産権による保護をすべきである。
第50回で説明したとおり、知的財産権による保護をしない場合は、後発組に市場を奪われ、挙げ句の果てに、先発組が倒産する場合もあることに、十分留意が必要である。
§4 中澤さんの後に、踵の部分がないスリッパが特許された
図1を用いて説明したように、中澤さんの1989年にした特許出願は、1971年出願の実開昭47-028151号及び実開昭48-003652号 (出願1971/05/25)、1982年出願の実開昭58-154604号 及び1983年出願の実開昭59-171503号を先行技術として拒絶されている。
しかし、図4に示すように青森県の主婦濱田智子さんが2012年に出願した、踵の部分のないスリッパ(発明の名称「簡単ストレッチサンダル」)が、特許庁のお墨付きを得て、2013年に特許権として登録されている(特許第5207010号)。
【図4】特許第5207010号に記載された簡単ストレッチサンダルの構造[ 出典:J-PlatPat]
特許第5207010号の特許請求の範囲の請求項1は、以下のような内容である:
一様な厚さの板状の下台底部と、
前記下台底部上にかかと側を露出したかかと置きが設けら
れ、つま先側からかかと側方向に測り3分の2が前記下台底
部の厚さよりも厚い平坦部であり、該平坦部からのかかと側
に向かい次第に厚さの薄くなる傾斜部を有する上台底部と、
つま先が露出した状態で足の甲を押圧するように、両端を
前記上台底部の両横に固定した帯状の甲押さえ部
とを備えることを特徴とする簡単ストレッチサンダル。
更に、特許第5207010号に対応するスリッパの意匠権も登録されている(意匠登録第1525569号)。中澤さんは特許権も意匠権も獲得できなかったが、その約23年後に青森県から出願された発明及び創作は、特許権及び意匠権として、両方とも権利化できたのである。
特許として権利化するためには、先行技術から「不常識」なレベルまで隔った新しさを如何にして審査官に説明するかがポイントになる。
§5 マーケティング戦略における3C分析
特許権を一つ取得すると安心してしまう人がいるが、それだけで自社が成功する要因にはならないことに十分配慮が必要である。中澤信子さんは、特許権を取得しなくても「初恋ダイエットスリッパ」を、60億円(?)以上売上げ、世界十カ国で発売することが出来ることを示した。
図5に示すように、特許権を取得するということはビジネスにおける手段を取得したことに過ぎない。重要なことは、その手段をどのように道具として有効に使い、事業収益を上げるかという観点である。
【図5】特許権を取得することが目的ではなく、その特許権をどのように「道具」の一つとしてビジネスに使うかが重要
ビジネスブレイクスルー大学学長大前研一先生は、1982年に『およそいかなると経営戦略の立案に当たっても、三者の主たるプレイヤーを考慮に入れなければならない。すなわち、当の企業=自社(Corporation)、顧客(Customer)、競合相手(Competitor)の三者である』と述べられている(Kenichi Ohmae,"Mind of the Strategist: The Art of Japanese Business",McGraw-Hill,(1982) 、第8章「戦略的三角関係」参照。)。
大前先生が提唱した3C分析においては、顧客(Customer)のニーズの変化を知り、競合相手(Competitor)が顧客のニーズの変化にどのように対応しているかを知る必要がある。
そして、自社(Corporation)は、顧客のニーズの変化に合わせ、競合の対応を鑑みながら、自社が成功する要因を見いだす必要がある。特許権を取得したことは、競合相手(Competitor)からの脅威に対する防御はできるが、それだけで自社が成功する要因ではないことに十分留意しなくてはならない。
図5に示した最終目標である「高い事業収益」を得るための道具は特許権以外にも多数ある。重要なことは、その「他の道具」と特許権とをどのように有機的に結合して、自社の強みとして、ビジネスに生かすかという工夫と努力である。
3C分析により、顧客のニーズの変化を知れば、周辺発明、関連発明、改良発明等を継続的に出願していくことが重要であることも理解できるであろう。一つの特許権では不十分なのである。
辨理士・技術コンサルタント(工学博士 IEEE Life member)鈴木壯兵衞でした。
そうべえ国際特許事務所は、発明や考案に至る前の種々の創作活動のご相談や、権利化可能な明細書の作成をお手伝いします。
http://www.soh-vehe.jp