第10回 発明は天才のひらめきによるものではない
NHKの朝ドラ「まんぷく」の効果で、日清食品の「チキンラーメン」が、2018年度に史上最高の売り上げを達成したということである。しかし、インスタントラーメン(即席麺)は、いったい誰が発明したのであろうか。
上図に示すとおり、日清食品の「即席ラーメンの製造法」の特許出願(特願昭34-1918)の前に、少なくとも2つの即席ラーメンの特許出願(特願昭33-34231、特願昭33-36661)が存在する。そして、これらの3つの特許出願の実質的な発明者はすべて在日台湾人である。
そして、3つの特許出願のうちの最初の特許出願は、呉(安藤)百福氏の出身の台湾南部を中心として知られていた麺を油で揚げる「ケーシ-ミー」に近い内容である。このことから即席ラーメンの発明のポイントは、麺を油で揚げることではないと結論できる。
このコラムでは、3つの即席ラーメンが、殆ど同時期に3人の発明者によって、それぞれ発明された顛末を、夏目漱石の『夢十夜』の考え方に沿って探ってみる。『夢十夜』の教える意味に沿えば「発明とは、既に存在する技術内容を誰よりも早く発見することである」となるであろう。
§1 独創とは蓋然の先見という思想はいつから存在したのか
§2 麺を油で揚げる方法のルーツは台湾
§3 東明商行と日清食品の特許の争いは先願と後願の関係
§4 仏教の教えるところと、創造性や発明との関係
§1 独創とは蓋然の先見という思想はいつから存在したのか
このコラムの第17回において、「独創とは蓋然の先見」というヘーゲルの言葉を紹介した。そして、第17回では、エディントンが、発明はもともと大理石の中に最初からあったものを掘り出しているに過ぎないと『物理学の哲学』に記載していることも紹介した。
夏目漱石の『夢十夜』の第六夜では、運慶はもともと木の中に最初からあったものを掘り出していると説明しているが、エディントンの大理石との違いはあるが、エディントンと夏目漱石の説明は酷似した内容となっている。
図1からわかるように、『夢十夜』は、1908年(明治41年)7月25日から8月5日まで『朝日新聞』で連載されていたが、エディントンの『物理学の哲学』の原書は、『夢十夜』が日本で連載された後の1939年に出版されている。
図1に示したように、107歳の長寿を全うした彫刻家の平櫛田中(ひらくしでんちゅう)(1872-1979)先生は夏目漱石より5歳年下であるが、平櫛先生も同じようなことを述べたとされている。
平櫛先生のアトリエ兼住居のあった台東区上野桜木町の一帯は、幸田露伴、森鴎外、夏目漱石、樋口一葉など明治の文豪が往来し、数々の文学作品の舞台にもなった地区であり、夏目漱石と平櫛先生との交流も推定される。
平櫛先生の師である岡倉天心の弟の岡倉由三郎は、夏目漱石とともにジェームズ・メイン・ディクソン(James Main Dixon)の教えを受けた間柄の友人であり、平櫛先生と夏目漱石とは何らかの関わりがあったであろう。
そして、図1に示すように、江戸時代前期の修験僧円空(1632~95年)も、「木にはもともと仏が宿っているので、それを掘り出す」という夢十夜と同じようなことを述べている。
【図1】「独創とは蓋然の先見」の思想の歴史
ミケランジェロ(Michelangelo Buonarroti : 1475-1564)が、「わたしは大理石を彫刻する時、着想を持たない。『石』自体がすでに掘るべき形の限界を定めているからだ。わたしの手はその形を石の中から取り出してやるだけなのだ」と言ったとされる。
“Ogni blocco di pietra ha una statua dentro di se ed e compito dello scultore scoprirla (Every block of stone has a statue inside it and it is the task of the sculptor to discover it.)”
平櫛先生は、近代木彫では、写実性に優れた第一人者である。平櫛先生は、日本の伝統彫刻に西洋の写実的表現を取り入れたとされるが、平櫛先生がミケランジェロの考え方を学んだか否かは不明である。
§2 麺を油で揚げる方法のルーツは台湾
NHKの朝ドラ「まんぷく」は、あくまでフィクションである。特許庁の記録によれば、図2に示すように、日清食品の即席ラーメンの製造法の特許出願(特願昭34-1918)の前に、少なくとも2つの即席ラーメンの特許出願(特願昭33-34231、特願昭33-36661)が存在する。
驚くことに、この3件の特許出願は、すべて、わずか約2ヶ月の間に出願されている。この事実は「発明」とは何かを考えさせるよい材料である。
【図2】即席麺の発明の歴史
図2からわかるように、1953年に村田製麺所(現 都一株式会社)の村田良雄氏が即席麺(屈曲麺製法)を発売している。そして、1955年には、現在の「おやつカンパニー」の前進である松田産業が「味付中華麺」を発売している。
「味付中華麺」は味を付けた乾麺に分類されるので即席麺の範疇には入らないとして、本コラムでは松田産業の発明については、その説明を省略させていただく。
そして、1958年春には、大和通商が「鶏糸麺」を発売しているが、「鶏糸麺」は、冒頭で述べた台湾において既に知られていた「ケーシ-ミー」に近いものと思われる。大和通商の 社長は在日台湾人の陳栄泰氏である。
図2に示すとおり、大和通商は昭和33年11月27日に発明の名称を「素麺を馬蹄形状の鶏糸麺に加工する方法 」とし、乙骨辰行氏を発明者として特許出願をしている。
昭和35年09月21日に特公昭35-13865号として公告になった大和通商の明細書には、「鶏糸麺とは 、素麺を馬蹄形状とし油処理を施せる糸状麺の名称である 」と定義して、「ケーシ-ミー」との相違を示している。そして、特公昭35-13865号の「特許請求の範囲」には、以下の記載がある。
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素麺を短時間蒸気にあててこれを均等に軟化せしめて馬蹄形状に変形し、
次いでこれを乾燥を施すか又は乾燥を施さずして、適量の馬蹄形麺面体を金網箱の中に収納し、
これを動物油としては豚の生油又は植物油の何れか1種を50 ℃内外の温度に加熱し、 常時この熱度を保持せしめたる環状の罐内に容れ 、
密閉せる後、この罐を徐々に廻転し、この廻転運動によって罐の中の油体に作動作用を与え、これが作用によって金網箱の揺動を促がして箱中に在る馬蹄形の麺に疎開作用を慈起せしめ、
この麺の疎開時を利用して 、個々の麺体中 に油の浸 透と油に依る煮揚げを行い、
更にこれを日陰乾燥を施す事を特徴とする素麺を馬蹄形状の鶏糸麺に加工する方法 。
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素麺を油で揚げた「ケーシ-ミー」が、台湾南部を中心として、台湾全土で知られていたようであり、日本に輸出され、終戦直後には「ケーシ-ミー」を日本で食べていた台湾人もいるようである。
昭和33年11月出願された大和通商の特許は、大正10年に改正され、大正11年から施行された旧特許法で審査される。この旧特許法の第4条には、
本法ニ於テ発明ノ新規ト称スルハ発明カ左ノ各号ノ一ニ該当スルコトナキヲ謂フ
一 特許出願前帝国内ニ於テ公然知ラレ又ハ公然用ヰラレタルモノ
二 特許出願前帝国内ニ頒布セラレタル刊行物ニ容易ニ実施スルコトヲ得ヘキ程度ニ於テ記載セラレタルモノ
と規定されている。終戦直後に「ケーシ-ミー」が日本国内で知られていたのであれば、素麺を油で揚げる大和通商の発明は、特許法で定める「新規」な発明ではない。
よって、大和通商の特公昭35-13865号に記載された発明の特徴は、素麺を油で揚げたことにあるのではなく、素麺を馬蹄形状の鶏糸麺に加工する方法にあったと理解できる。
§3東明商行と日清食品の特許の争いは先願と後願の関係
大和通商の「鶏糸麺」と前後して、1958年春には、東明商行が「長寿麺」を発売している。
ただし、「南極越冬隊御採用」と書き込まれた「東明 長寿麺」の広告が、1959年のアサヒグラフ11月臨時増刊「スキーと冬山特集号」に掲載されているので、大和通商の「鶏糸麺」の発売よりも早い1956年の第一次南極観測隊には長寿麺が持ち込まれている。
東明商行は昭和33年12月18日に発明の名称を「味付乾麺の製法」とし、社長の張国文氏を発明者として特許出願をしている。張国文氏も在日台湾人である。昭和35年11月16日に特公35-16974号として公告になった東明商行の「特許請求の範囲」には、以下の記載がある。
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食塩を添加した小麦粉を撹拌しつつ、ジベンゾイルジアミン、ビタミンB2 及び炭酸カルシウムの混合物から成る強化用添加物を均等に混加し、
次いでかん水を徐々に注加し、この粘状物を常法により麺に成型し、
次いで蒸茄した後、鶏肉と食塩、及び豚脚と醤油並びにビタミンB2を添加して
別に調製された濃縮スープ中に蒸茄済麺を浸漬して充分に吸収させた後、
ラードで揚げ、
次いでこれを乾燥して味付乾麺を得ることを特徴とする味付乾麺の製法。
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大和通商の特許出願(特願昭33-34231)と東明商行の特許出願(特願昭33-36661)とは先願と後願の関係になる。大正10年の旧特許法の第8条には、以下のように規定されている:
同一発明ニ付テハ最先ノ出願者ニ限リ特許ス但シ同日ノ各別ノ出願者アルトキハ出願者ノ協議ニ依リ特許シ協議調ハサルトキハ共ニ特許セス
大和通商の特願昭33-34231には「麺に味付した後に油で揚げる」という記載はなく、東明商行の特願昭33-36661には、「濃縮スープ中に蒸茄済麺を浸漬して充分に吸収させた後、ラードで揚げる」という記載があるので、特願昭33-34231と特願昭33-36661とは同一発明ではない。
台湾全土で知られており、終戦直後に日本にも輸出されていたとされる「ケーシ-ミー」は、油で揚げた後に麺に粉をまぶして味をつける方法らしいので、大和通商の特願昭33-34231は「ケーシ-ミー」に近いが、東明商行の特願昭33-36661は「ケーシ-ミー」とは異なる発明と言えよう。
ただし、東明商行の特願昭33-36661も「ラードで揚げる」という記載があるので、初期の頃の「ケーシ-ミー」に近い。
大和通商の「鶏糸麺」と東明商行の「長寿麺」が発売された後の1958年8月25日には、日清食品が「チキンラーメン」を発売している。
日清食品は昭和34年01月22日に発明の名称を「即席ラーメンの製法」とし、安藤須磨を発明者として特許出願をしている。安藤須磨はNHKの朝ドラ「まんぷく」で松坂慶子の演じている呉(安藤)百福氏の妻の母親である。
東明商行の特公35-16974号と公告日と同日である昭和35年11月16日に特公昭35-16975号として公告になった日清食品の「特許請求の範囲」には、以下の記載がある。
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小麦粉を主材とし之にカン水、塩水、油、生妥汁液、船卵等の添加諸材を加えた原料を混練して
製麺機等により可及的細薄麺条を形成して蒸熱後
冷風供給下に油液の噴霧注加の下に解きほぐし、
別に鶏骨スープ等の動植物スープを基体とし之に動植物質調味材及び化学調味材更に香料等を添加して濃縮調製した調味液を加温したものを
前記麺条群に再び冷風供給下に噴霧注加して浸透保有させ
之を折損せぬ程度に予備乾燥し該味付麺条群を動植物性の高温油液中にて瞬間揚処理を行なうと共に
油切り乾燥することを特徴とする即席ラーメンの製造法。
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東明商行の特許出願(特願昭33-36661)と日清食品の特許出願(特願昭34-1918)も先願と後願の関係になる。すでに「麺を油で揚げる」ことは発明の特徴にならないことは説明したが、日清食品の特願昭34-1918も「麺に味付した後に油で揚げる」点では、東明商行の特願昭33-36661に近い。
しかし、特願昭33-36661が「濃縮スープ中に麺を浸漬して味付け」した後に油で揚げているが、日清食品の特願昭34-1918は、「麺条群に冷風供給下で濃縮調製した調味液を噴霧注加して浸透保有」させた後に油で揚げている点で異なるので、旧特許法の第8条の同一発明にはならない。よって、東明商行の特願昭33-36661と日清食品の特願昭34-1918は同日に許可され公告されたのである。
なお、図2に示したように、1961年には、日清食品が東明商行の特許を登録前に、2300万円で買い取っている。現在の価格にすると約3億円に相当する額である。
以上のとおり、大和通商の特願昭33-34231、東明商行の特願昭33-36661及び日清食品の特願昭34-1918は互いに類似しているが、それぞれ異なる発明である。又、特願昭33-34231、特願昭33-36661及び特願昭34-1918は、それ以前に知られていた麺を油で揚げる手法である「ケーシ-ミー」とも区別されるので、何れも特許されたのである。
このコラムの第17回でポアンカレが「発見とは識別であり選択である」との名言を紹介している。台湾で知られていた「麺を油で揚げる」という手法と、味付けの仕方等の新しい技術の組み合わせによって、類似した3つの即席麺の創造活動が、異なる場所でほぼ同時になされたとしても不思議ではないであろう。
夏目漱石の『夢十夜』の木の中に最初から埋め込まれていた仁王像のように、発明等の創造活動の本質は、もともと自然の万象万物中に既に存在していたものを発見しているにすぎないのであるから。
§4 仏教の教えるところと、創造性や発明との関係
図1にもどるが、名古屋市の荒子観音寺の『浄海雑記』所収の「円空上人小伝」には、円空は天台宗の僧となり、北名古屋市の高田寺(こうでんじ)において修行したと記されている。
この天台宗には「山川(さんせん)草木悉有(しつゆう)仏性(ぶっしょう)」という教えがある。衆生(人間)に限らず、山川草木や生類すべてに仏性があるというものである。後に、梅原猛先生が「草木国土悉皆成仏」という造語で同じ思想を表現している。
中国天台宗は、初祖智顗(ちぎ)(538-597年)が6世紀に創始した仏教の一派で、法華経を中心経典とする。草木だけでなく塵や石ころまでに仏性があると説いたのは中国天台宗の第6祖湛然(たんねん)(711-782年)とされる。日本では、804年に入唐した最澄が中国天台宗を学び、これを805年に日本に戻って伝えたものであり、図1に示したミケランジェロよりも600年以上も古い。
臨済宗の開祖栄西禅師は、1154年14歳で比叡山に入り日本の天台の教学を修めたがあきたらず、1168年4月に入宋した。中国の天台山,阿育王山を歴訪し、中国天台宗に関する注釈書などを持って1168年9月に帰朝し、1187年に再入宋し、1191年に帰朝している。
平櫛先生は、谷中の長安寺の近くにある麟祥院で禅僧西山禾山(にしやまかざん)の臨済録の講話を聴き、3年にわたり入門参禅したという。
平櫛先生の初期の作品は、仏教説話や中国の故事などを題材にした精神性の強いものとされるが、天台宗の「山川草木悉有仏性」という教えや、円空の「木にもともと仏が宿っているのでそれを掘り出すという」考え方を、平櫛先生は理解していたものと思われる。そして、平櫛先生と夏目漱石との間に共鳴するものがあったとしても不思議ではない。
第17回で紹介した米国のR.K.マートン(Merton)の「『創造性』とは、必然的に起ころうとしている発見を誰よりも早くつかみ取る『効率の良さ』のことと考えられる」の考え方のルーツは、図1に示すように15~16世紀のミケランジェロにまで遡れるであろう。
しかし、ひょっとすると、8世紀の中国天台宗第6祖湛然の思想にそのルーツがあると解釈することも可能かもしれない。「山川草木悉有仏性」とは、自然の万象万物に中にお釈迦様の教え、真理、法則がそのまま見いだし得るということであろう。
即ち、発明とは既に自然の万象万物に中に存在し、それを最初に発見しているに過ぎないということを、ヘーゲルは「独創とは蓋然の先見」という言葉で説明しているのである。
辨理士・技術コンサルタント(工学博士 IEEE Life member)鈴木壯兵衞でした。
そうべえ国際特許事務所は、「独創とは蓋然の先見」という創作活動のご相談にも積極的にお手伝いします。
http://www.soh-vehe.jp