第19回 立原正秋に学ぶ研究者の指導における「つよさ」
マックスウェルが電磁場をきれいな4つの方程式にまとめた。しかし、このマックスウェルの電磁方程式を基礎として、ケルヴィン卿が、アインシュタインの一般相対性理論の端緒となる問題点を、1900年に指摘していた。このマックスウェルとケルヴィン卿の両巨人が明治時代の初期の日本の電気関係の研究を褒めている。
§1 明治時代の初期に世界中で一番素晴らしい研究所が日本にあった:
前回のコラムで、電磁気学の大御所であるJ.C.マクスウェル(Maxwell)が、「電気学の重心(the electrical centre of gravity)が日本に移った」と指摘したと述べた(J. Perry, "Obituary: William Edward Ayrton, F. R. S", The Electrician, Vol.62, p.187, (1908))。
ウィリアム・トムソン(William Thomson)教授の無給助手をしていたジョン・ペリー(John Perry)が日本の工部省工学寮の土木科の助教授(Joint Professer)として赴任していたのは、明治8年(1875年)~明治12年である。当時の土木科の教授(Professer)はヘンリー・ダイエル(Henry Dyer)であった。友人のウィリアム・エドワード・エアトン(William Edward Ayrton)はペリーより先の明治6年(1873年)から工部省工学寮の電信科の初代教授として着任していた。エアトンは、11編のペリーとの共同研究論文を日本から発表している。
ペリーは英国に帰国後、Messers. Latimer Clark, Muirhead &Co.という電動線の会社を経て、ロンドン技術短大とも称されるフィンズベリー工業学校(Finsbury College of the City and Guilds of London Technical Institute)の教授に採用された。更に、1886~1913年にペリーは王立理科大学(Royal College of Science)の教授となった。
エアトンが1908年11月8日に亡くなったとき、ペリーは以下のような追悼記事を英国電気学会誌(JIEE)やネイチャー(Nature)に掲載している(J. Perry, untitled obituary [“Death of Professor Ayrton”], Journal of the Institution of Electrical Engineers, vol.42, No3-6, pp.3-4, (1909);J.Perry. "Prof. William Edward Ayrton, F.R.S." [obit], Nature, vol.79, p. 74, (Nov.1908-Feb,1909)) :
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When I arrived in Japan in 1875, I found a marvellous laboratory, such as the world had not seen elsewhere. At Glasgow, at Cambridge, and at Berlin, there were three great personalities; the laboratories of Kelvin, and of Maxwell, and of Helmholtz, however, were not to be mentioned in comparison with that of Ayrton. Fine buildings, splendid apparatus, well-chosen, a never-resting keen-eyed chief of great originality and individuality: these are what I found in Japan.
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なんと、ペリー助教授は、英国電気学会誌やネイチャーの中で、明治時代初期に日本にあった工部大学校(The Imperial College of Engineering)の新校舎の建築物、備品(装置)や独創性の素晴らしさは、当時の英国のグラスゴー大学のケルビン(Kelvin)卿の研究所やケンブリッジ大学のマクスウェルの研究所、更にはドイツのベルリン大学のヘルムホルツ(Helmholtz)の研究所のレベルが比較に値しないほどであると褒めているのである。
工部大学校の新校舎の設計や備品(装置)等の選択にはケルビン卿の弟子であるエアトンが関わっていた。1875 年には未だ日本には工学寮の旧校舎しかなかった。英国電気学会誌やネイチャーに掲載された追悼記事の内容は、日本の工部大学校の新校舎が完成したのが 1877 年であることを考慮すると、ペリー助教授が来日した1875年ではなくその後に見たことを書いていると思われる。
実はグラスゴー大学のケルビン卿の研究所は1846年に設立されており、ケンブリッジ大学のマクスウェルのキャヴェンディッシュ研究所は1874年の設立なので、工部大学校の新校舎が完成した 1877 年は、イギリスの研究所の設立に比べて大きく遅れていたのではない。
ケルビン卿もマクスウェルと同様に工部大学校の研究成果を知り、「世界の工学の中心は日本に移った」と言ったと伝えられている(前回のコラム参照。)。エアトンらが工部大学校の学生を共著者として英国の学会誌に論文を投稿する形で、日本から外国への技術輸出がされていたのである。
実際のところ、工部大学校の教師たちは、イギリスに帰った後、工部大学校のような組織をつくることに奔走したそうである。そうしてできた教育機関の一つが、前述したロンドン技術短大(フィンズベリー工業学校)である。
§2 ギーセン大学が、世界で最初の化学・薬学の研究所を1825年に設立:
ウィリアム・トムソンは、10歳でグラスゴー大学への入学を許可された神童である。22歳の若さでグラスゴー大学の哲学部の教授に就任した。そのグラスゴー大学の構内に流れている小川の名前が「ケルビン(Kelvin)」だったので、1892年に英国貴族(男爵)の身分となった際、トムソン教授は「ケルヴィン卿」の名で知られるようになる。
大西洋横断の海底電信ケーブル敷設プロジェクトの事業会社の監督官になって、トムソン教授が実験室での研究や正確な測定に基づくデータを用いて1865年と1866年に工事現場を指揮したという。この功績で、トムソン教授は1866年にナイト(勲功爵)の位を贈られることになった。明治11年(1878年)~明治14年に工部大学校の電信科の教官になるトーマス・ロマール・グレー(Thomas Lomar Gray)は、トムソン教授の助手で大西洋海底ケーブル会社の技師であった。
トムソン教授(ケルヴィン卿)は、上記の海底電信ケーブル敷設プロジェクトの前となる1846年にイギリスの大学で初めて物理学の研究所(実験室)を作った。世界最初の学生実験室と言われる。ただし既に1817 年には、英国初の化学実験室がグラスゴー大学に設立されていたといわれている。
その後1871年になると、ケンブリッジ大学にも、実験物理学講座としてキャヴェンディッシュ研究所が設立が決定された。ケンブリッジ大学学長のウィリアム・キャベンディッシュが財産を寄付した。トムソン教授より7歳年下のマクスウェルがキャヴェンディッシュ研究所の建設と実験設備の設置の段階から積極的に関わり、1874年に研究所が開設されたとき初代所長を務めた。
キャヴェンディッシュ研究所の第5代所長ウィリアム・ローレンス・ブラッグ(William Lawrence Bragg)は、所長になったときに以下の3原則を宣言した:
【図1】
流行のテーマを追うなということで、「今後、原子核の研究は一切やめ、これからのテーマとして電波天文学、生体物理学、宇宙線の3分野をやる」とW.L.ブラッグ新所長が宣言した。このため、米国からの留学生は皆帰国したようである。しかしキャヴェンディッシュ研究所では新たな分野からノーベル賞受賞者がたくさん出し、現在、キャヴェンディッシュ研究所のノーベル賞受賞者の輩出数が29人である。研究所単位のランキングではキャヴェンディッシュ研究所が世界のトップである。
W.L.ブラッグは、2014年にノーベル平和賞を17歳で受賞したマララ・ユスフザイ(Malala Yousafzai)さんが登場するまでは、最年少の25歳でノーベル物理学賞を受賞している。
さて、ケルヴィン卿(トムソン教授)は、以前留学していたリヨン大学のアンリ・ヴィクトル・ルニョー(Henri Victor Regnault)教授の研究室に倣ってケルビン研究所を造ったとされる。
しかし、このルニョー教授は、ギーセン大学のユストゥス・フォン・リービッヒ(Justus von Liebig)教授の助手をしていたことがあり、ルニョー教授の研究室は、リービッヒ教授の実験室を真似ていたのである。
【図2】
§3 19世紀初頭のドイツ地域では学生実験は認められていなかった:
当時、ギーセン大学は、伝統的な哲学・医学・法学・神学の4学部からなり、一般化学は哲学学部、薬学は医学部に属していた。リービッヒ教授は、天秤室、試薬類の倉庫、洗浄室等を備えた、世界で最初の化学・薬学研究所を1825年に作った。このため、現在、リービッヒ教授の手法が実験的な科学的手法の原点とされている。
実は、リービヒ教授は、1822年にソルボンヌ校(パリ大学理学部)に留学している。このソルボンヌ校(パリ大学理学部)に1808年から1832年までジョセフ・ルイ・ゲイ=リュサック(Joseph Louis Gay-Lussac)が教授を努めていた。
パリ大学は、西欧で最も古い古典的大学でありながら、ナポレオン時代の1807年に帝国大学令により、16に分割された大学区に神学部、法学部、医学部、理学部、文学部の5学部がおかれ、1808年には理学部が存在した。
19世紀初頭のドイツでの化学教育において、学生実験は認められていなかった。しかし、フランスのゲイ=リュサック教授の研究室では、科学的手法としての観察,仮説,実験,理論が行われていたのであった。
このように、実験的な科学的手法を世界で最初に始めたとされるリービヒ教授は、1822年にパリ大学に留学したとき、ソルボンヌ校で・ゲイ=リュサック教授からその実験的手法を学んだのである。
§4 アインシュタインを指導したのはヘルムホルツの実験助手
なお、ヘルマン・ルートヴィヒ・フェルディナント・フォン・ヘルムホルツ(Hermann Ludwig Ferdinand von Helmholtz)は、軍医時代に兵舎の中に実験室を作り、研究を行ったと言われている。ベルリン大学の発足は1810年であるが、ヘルムホルツは、1871年からベルリン大学の物理学の教授をつとめていた。ヘルムホルツ教授が着任した1871年から1874年までの間ヘルムホルツの実験助手を務めていたのが、ハインリヒ・フリードリヒ・ヴェーバー(Heinrich Friedrich Weber)であった。
その後、スイス連邦工科大学(ETH)に移って、アルベルト・アインシュタイン(Albert Einstein)を指導したのはこのH.F.ヴェーバー教授である。工部大学校が研究室(研究所)を比較された、グラスゴー大学ケルビン卿、ケンブリッジ大学マクスウェル、ベルリン大学ヘルムホルツの3名の巨人は、何らかの形でアインシュタインへのつながりが見いだせるのである。
1890年にアインシュタインはETHを卒業するが、H.F.ヴェーバー教授との不仲によりETHの助手として残ることができなかった。そのため、1902年になって、アインシュタインはスイス特許庁に審査官(3級技術専門職)として就職している。1909年にスイス特許庁を退職して、アインシュタインはETHの隣のチューリッヒ大学の助教授となっている。
当時の実験物理の手法の代表的な教授であったヘルムホルツが、1887年に設立された「ドイツ帝国物理学・技術研究所(the Physikalisch-Technische Reichsanstalt:PTR)」の設置に貢献したといわれている。
§5 鳳秀太郎先生~西澤潤一先生への系譜
工部大学校の1期生で、ケルビン卿から「生涯のなかで最も優秀な生徒」と賞された志田林三郎先生は、1886年に帝国大学の初代の教授になられた。しかし、36歳の若さで1892年に亡くなっているので、1896年に帝国大学を卒業された鳳秀太郎先生とは、志田先生の直接的な指導の系譜はないものと思われる。
工部大学校3期生の藤岡市助、中野初子、浅野応輔の3氏は卒業後、工部大学校の教授補(助教授)に任じられていたが、志田先生がなくなられた1892年には、浅野先生以外の2氏は、帝国大学に在職していなかったようである。藤岡先生は、1884年(明治17年)に工部大学校の教授に昇任し、1886年には帝国大学工科大學の助教授に就任したが、この年に辞職されている。
一方、中野先生は、1888年(明治21年)に米国に留学しており、志田先生がなくなられた1892年には日本にはおられなかった。日本に帰朝して東京帝大教授になられたのは1901年(明治34年)である。鳳先生は、1897年に東京帝大工科大学助教授となられ、1906年に教授に就任されている。中野先生と鳳先生とは、1901年以降の東京帝大工科大学の教官間における指導関係があった可能性がある。
又、浅野先生は1891年(明治24年)に逓信省電務局電気試験所の初代所長になられたが、中野助教授が留学中は工科大学講師を兼務していた。その後1899年(明治32年)に東京帝国大学工科大学の教授になられている。工部大学校の4期生山川義太郎先生は1887年に工科大学校助教授に任ぜられ、鳳先生が卒業された1896年に欧米諸国に留学し、3年後の1899年に帰国して、東京帝国大学教授に昇進されている。よって、鳳先生の学生時代の指導関係としては、浅野先生と山川先生が推定される。
鳳先生は、与謝野晶子の実兄で「鳳-テブナンの定理」で有名ある。図2の系譜に示した鯨井恒太郎先生は、1908年(明治41年)に東京帝大工科大學の鳳先生の研究室の助教授となっており、その後1918年(大正7年)に教授になられている。
鯨井先生は大正13年に東京市電気研究所の初代所長を兼任され、1926年(大正15年)5月~10月の間に秘密通信機に関する特許を4件出願されている。そして、昭和2年に東京市を特許権者として秘密通信機に関する特許第71523号、特許第733403号及び特許第733743号を取得し、昭和5年に特許第848443号を取得されている。鯨井先生は、その後も多数の特許出願を続々と出願し権利化されている。
八木先生は、1906年東京帝国大学工科大学電気工学科に入学し、1909年(明治42年)に卒業している。鳳先生の研究室に出入りしていた八木秀次先生は、特許の重要性を当時助教授の鯨井先生から学んでいた可能性がある。
当時の電気工学科は山川先生は単独の部屋におられたが、鳳先生と鯨井先生は4人の専任教官用の部屋に雑居されていたようである。鳳先生も明治44年にオシログラフの特許を取得されている。卒業後、東京帝大工科大學助教授鯨井先生の勧めで、仙台高等工業学校に八木秀次先生は嘱託講師として赴任した。
仙台高等工業学校は1906年(明治39年) に設立されている。八木先生は1910年(明治43年)に仙台高等工業学校の教授になっている。明治45年3月仙台高等工業学校は東北帝大に移管され、工学専門部となり、大正8年(1919年)に東北帝大工学部となる。八木先生の仙台高等工業学校赴任から東北帝大電気系の歴史が始まったとされる所以である。
図2の系譜の後段に示した、八木先生から西澤潤一先生までの系譜は、このコラムの第18回及び第19回で既に述べたとおりである。
辨理士・技術コンサルタント(工学博士 IEEE Life member)鈴木壯兵衞でした。
そうべえ国際特許事務所ホームページ http://www.soh-vehe.jp