第15回 オープン&クローズ戦略と3P+P
§1.仙台藩士玉蟲左太夫の見た米国特許庁
現在の米国特許庁(正式には「米国特許商標庁」)は、ヴァージニア州アレキサンドリア市にある。その前は、ヴァージニア州のクリスタルシティに所在していた。もっと遡れば、米国特許庁はワシントンDCに所在していた。
岩波書店の「西洋見聞集」に、沼田次郎氏が校注をした玉蟲左太夫の航米日録が紹介されている(沼田次郎、松沢弘陽著、『日本思想大系第66巻西洋見聞集』、岩波書店、1974年)。仙台藩士玉蟲左太夫は、幕府の学問所の昌平黌(しょうへいこう)大學頭の林復斎(はやし ふくさい)の門に入り、塾頭となる。
1100石を賜った徳川幕臣玉蟲重茂の血筋であり、観察力と文章力等の能力が認められた仙台藩士玉蟲左太夫は、万延元年(1860年)に、正使新見豊前守(外国奉行)の従者に抜擢され、米国海軍の軍艦パウアタン号に乗り、米国に行く。
パウアタン号は1854年(嘉永7年)にペリーが日本再訪した際の黒船の一隻である。1856年から1860年にかけての第2次アヘン戦争(アロー戦争)で中国の大沽砲台(現天津市内)を攻撃したジョサイア・タットノール((Josiah Tattnall)提督(代将)が帰国にあたり、軍艦パウアタン号で第1回幕府遣米使節を米国に送り届けたのである。
パウアタン号の護衛艦である咸臨丸の方には、勝海舟・福沢諭吉らが乗っていた。福沢諭吉は米国特許庁を訪問しなかったようであるが、玉蟲左太夫は、米国特許庁を訪問し、航米日録にその様子を記載しており、玉蟲左太夫は米国特許庁を最初に日本に紹介した日本人である。
航米日録は全8巻あり、原稿用紙にして480枚に達する。特に、航米日録の写本が40種と異常に多いのは、航米日録への日本人の注目度を示し、玉蟲左太夫の帰国直後に競って書き写されたものと思われる。その航米日録の巻三の万延元年(1860年)4月2日(これは旧暦の日付で新暦では5月21日)に、玉蟲左太夫は、以下のように日記風に記載して米国特許庁を紹介している。
『已後御奉行等パテントオフユシ(博物所ト云ウ義ナリ)ニ行ク。旅館ヨリ…(中略)…其ノ家ナリ、巨大ノ作リニテ高サ5~6層ナリ。ソノ2層ニ至リ暫時休憩ス。夫レヨリ3層ニ上ガレバ、左右前後ニ閣板ヲ数次重ネ、禽獣魚中ノ枯骸ヲ並ブ、ソノ形チ生キタルガ如シ。其外万国ノ什器ヲ列ス、ソノ幾万ナルヲ知ラズ。…(中略)…。此一房ヲ過ギ又一方ニ入レバ機械ノ雛形アリ、是又其数知ルベカラズ。…(以下省略)』
沼田次郎氏の校注によれば、パテントオフユシとはPatent Officeである。玉蟲左太夫の一行は、米国特許庁長官トーマス(Philip F. Tomas)氏と会見して「アメリカ特許法」及びReport of the Commissioner of Patents for the year 27巻(1850~1858年分)の文献を贈られている。米国特許庁は1836年に火災に遭い、1840年に新しい特許庁庁舎が完成しているので、玉蟲左太夫の一行は1840年に完成した米国特許庁の庁舎を見学したものと思われる。しかし、米国特許庁は1877年に2度目の火災に遭遇している。
航米日録が存在することが知られているのにもかかわらず、日本で初めて特許制度を紹介したのは福沢諭吉と言われている。慶応2年(1866年)に、『西洋事情外編. 三』において福沢諭吉は次のように特許制度を紹介している。
『目的とする所は、世間一般の為(た)めを謀(はかり)て、発明家に専売の大利を許し、人心を鼓舞して世に有益の発明多からしめんとするに在り。その法、世の士君子、窮理(きゅうり=物理)、舎密(せいみ=化学)、器械学等を研究して、新奇有用の物を発明することあれば、その次第を書に記してこれに品物の図を添え、或は又図を以て解し難きものはその雛形(ひながた)を造りて、その書面に発明者の姓名を記し、これを「パテント・オフヒシ」と云える発明免許の官局に出して点験を請(こ)う』
『西洋事情外編』はイギリス人チャンブルの経済書を底本としたものであり、福沢が洋行で得た経験・知識を元に記したものではないことは、西洋事情外編の「題言」に福沢自身が記している。文久3年(1863年)から第一回遣欧使節団の通訳として福沢諭吉は、第2回目の洋行をしている。
福沢諭吉の第2回目の洋行では、フランス、イギリス、オランダ、プロシア、ロシア、ポルトガルを歴訪し米国を訪問していない。1790年のアメリカ連邦特許法に続き、1791年にフランス特許法が制定されているが、フランス特許法は1968年まで無審査主義を続け、フランス特許庁(INPI)ができたのも1951年である。
1815年にプロシア特許法が制定されたものの1868年には、プロシャ、北ドイツ連邦が特許制度に反対していた。その後、1877年にドイツ統一特許法が制定されたときにドイツ帝国特許庁が設立されている。1869年にはオランダ特許制度も廃止されており、福沢諭吉の第2回の洋行当時、多くの欧州の国における特許制度保護論は非常に弱い状態であった。
一方、1852年にはイギリス特許庁が設立されているが、高橋是清はその自伝の中で『だんだんと英国の特許制度を調べてみると、既に米国を研究した目には、むしろ教えてやりたい位遅れている』と述べている(市川一男、『日本の特許制度』、日本発明新聞社、p89)。
§2.現物主義と書面主義
現在の米国特許法規則91条(CFR 1.91)(a)には、
模型(model)又は雛形(exhibit)は,次の条件に該当している場合を除き,出願に係る記録の一部とは認められない。
(1) 実質的に§1.52又は§1.84の要件を満たしていること
(2) 特許商標庁によって明示して要求されていること,又は
(3) 次のものを含む,本条に基づく申請書と共に提出されること
(i) §1.17(h)に記載されている手数料,及び
(ii) 特許性を証明するために,当該模型又は雛形をファイル記録に記録することの必要についての説明
なお、米国特許庁の審査基準(MPEP)608.03には、「永久運動に関する事件を例外として,通常は,装置の運転可能性を証明するために特許商標庁が模型を要求することはない」と記載されている。
我が国の特許法も厳密な書面主義が採用され、特許法施行規則第1条には、「特許出願、請求その他の特許に関する手続(以下単に「手続」という。)は、法令に別段の定めがある場合を除き、書面でしなければならない」と規定され、模型又は雛形の提出は要求されない。ただし、微生物に係る発明について特許出願をしようとする場合は、微生物の寄託が必要になることがある(特許法施行規則第27条の2)。
又、我が国は平成2年(1990年)12月1日より、特許出願を電子化方法によりすることが可能になったが、工業所有権に関する手続等の特例に関する法律第3条第3項に、電子情報処理組織を使用して行われた特定手続については、「当該特定手続を書面の提出により行うものとして規定した特許等関係法令の規定に規定する書面の提出により行われたものとみなして、特許等関係法令の規定を適用する」と規定されているので、インターネット出願をして紙(書面)を排除した場合であっても、書面主義の基本は変わっていない。
米国では1790年法の当時から特許出願には模型又は雛形が必要とされ現物主義を併用していた。1836年に世界で最初の特許庁による審査主義の採用されたときには、12インチ平方以内の模型等の提出が義務づけられていた。
米国の議会は1870年に特許出願に際し模型等の提出は不要であると決定したが米国特許庁は1880年まで模型等の提出を義務化し、現物主義の併用を継続していた。1880年に特許庁長官が要求しない限り模型等を提出しなくてもよいように法律が改正されたが、19世紀末まで模型等の提出される場合があったようである。
1810年頃から1876年まで公衆が模型等を見ることが許されていたので、玉蟲左太夫の一行も模型等を見て、「機械ノ雛形アリ」と航米目録に記載したものと思われる。1876年には特許庁に模型等の置き場がなくなってきて、手狭になったので、公衆が模型等を見ることが禁止されてしまった。
米国特許制度の初期の経緯をみれば、特許とは「物の発明」であり、それ故、模型又は雛形の提出が求められていたのである。我が国特許法第2条第3項には「物の発明」、「方法の発明」、「物を生産する方法の発明」の3つのカテゴリーがあることが規定されているが、特許の基幹をなすものは「物の発明」である。
「方法の発明」や「物を生産する方法の発明」の場合は侵害の立証が困難であるので、権利行使できない場合がある。又、安易に「物を生産する方法の発明」の特許出願して、特許庁での審査の過程で権利化できないことになれば、自社の技術を公開して他社の模倣を許すことになる。たとえ、我が国で「物を生産する方法の発明」を権利化しても、グローバルな視野がなく、外国出願していなければ外国による自由な模倣を促進することにもなり得るものである。
「物の発明」、「方法の発明」、「物を生産する方法の発明」の3つのカテゴリーについてそれぞれ特許出願することは、一見多角的な権利化ができるように思われるかもしれない。しかし、自社のビジネスをどのように行うかという事業戦略のもとで、グローバルな観点から外国出願まで含めて知財戦略を検討していないと、安易に「物を生産する方法の発明」を特許出願することは、自社の事業に致命的な損害を及ぼす可能性があることに十分留意すべきである。
又、「物の発明」が、特許の基幹をなすということは、特許の書面に物の構造をきちんと記載することである。よって、特許出願の「書面」としての「特許請求の範囲」に「物」の機能や、「物」の製造方法を記載することは、通常意味のないことになる。
米国の特許庁における特許の審査では、特許請求の範囲に「物」の機能が書いてあれば、審査官はその箇所を飛ばして読み、構造を規定している内容だけで、審査官が、その特許出願の特許性を判断するように指導されているようである(筆者が、直接、元米国特許庁審査官から聞いた事実である。)。
§3 2011年に開催された「19世紀のイノベーションについての展示会」
万延元年(1860年)当時、米国特許庁はワシントンDCに所在しており、他の省庁と共有したビルだったようである。
http://www.aviewoncities.com/washington/oldpatentoffice.htm
当時の米国特許庁には、出願されたサンプルの保管のほか、歴史的、科学的な展示物もあったようである。独立宣言書もあったようなので、現在のNational Archive museumの前身のような機能ももっていたようである。玉蟲左太夫は、その一部を見学したものと思われ、航米目録には「禽獣魚中ノ枯骸ヲ並ブ、ソノ形チ生キタルガ如シ。」と記載している。
2011年にスミソニアン博物館がUSPTOと共同で「19世紀のイノベーションについての展示会(Smithsonian Exhibition on Innovation in 19th-Century America )」を開催している。それによれば、玉蟲左太夫の一行が訪問した当時の米国特許庁には、その3階に特許の模型(patent models)だけでなく、政府の歴史的、科学的及び技術的収集物(the government's historical, scientific and art collections) も展示されていたようであり、冒頭で説明した玉蟲左太夫の「航米目録」の記述に符合する記載を見いだすことができる。
http://www.ipwatchdog.com/2011/03/06/smithsonian-exhibition-on-innovation-in-19th-century-america/id=15672/
実は咸臨丸の乗船者の中で渡航記を記載した人は15余名おり、それらは日米修好通商百年記念行事運営会編『万延元年遣米使節史料集成』、風間書房の全7巻に収録されている。『万延元年遣米使節史料集成』の中で、副使の村垣淡路守範正が「特許庁」を「百物館」と翻訳し、定役格通詞の名村五八郎が「博物館」と翻訳し、徒目付の日高圭三郎が「物品館」と翻訳し、勘定方組頭の森田清行(岡太郎)が「器械局」と翻訳しているのは、上記のような理由からである。
§4 玉蟲左太夫の「共和制」的政体の実現に向けた理念
南北戦争(1861年 - 1865年)直前の米国を見聞した玉蟲左太夫は、明治元年(1868年)春、仙台藩主の命を受け松平容保候と会見し、朝廷への帰順を勧める。しかしながら、新政府軍が降伏の条件を受け入れず、松平容保も薩長への屈服に反対であることを玉蟲左太夫は知る。
万延元年の遣米使節は、ワシントンでの日米修好通商条約批准書の交換の後、大西洋を渡る。左太夫は帰路、欧州も観察しており、欧米をめぐった経験から、蒸気機関の開発、人材を海外に派遣すること、富国強兵によって列強と対等に渡り合うべき等の主張をし、幕府だけによる政治を批判していたという。
「薩長政権」への対峙を通じ、米国の「共和制」的な理念を模索した玉蟲左太夫は、奥羽越列藩同盟結成の中心人物となる。以下の文章は、奥羽越列藩同盟が一つの独立国家であることを諸外国に認めさせるために、米国公使に送ったもので、玉蟲左太夫によるものと推定されている:
『貴国、南北両部の戦いは、北人は南人が黒人奴隷を牛馬のように駆使するのを見るに忍びず、再三諭したが南人は屈せず、ついに四、五年間の長い戦いに及んだと聞く。戦いは北人の仁心が貫徹し、次第に南軍は敗れ、北部を中心に三十余州が一つとなった。わが日本の戦いも貴国の南北戦争と同じである。南方の為すところは不仁であり、不義である。貴国のリンカーンのごとき人物が日本にいれば、天皇に北方の真の姿を伝えてくれようが、それは望むべくもない。そのことを深く諒察していただきたい(星亮一著、『続 会津藩燃ゆ白虎隊燎原に死す』教育書籍、p140)』
この訴えに米国公使ヴァン・ヴォルクンバークはいたく同情したという。しかし、明治2年(1869年)に戊辰戦争での責任を問われ、玉蟲左太夫は、無念の切腹を命じられる。
リンカーンが発明に関心があり、リンカーン自身も発明家であることは南北戦争当時知られていた。そこで一攫千金を狙う発明家がリンカーンに多数の新兵器を提案し、その中からリンカーンが選択した新兵器により北軍は有利に戦争を進めた。リンカーンのプロパテント戦略が北軍に勝利をもたらしたとも言われている。
又、南北戦争が終わるとリンカーンはプロパテント政策により全米の工業化を推進した。米国の製造業は大いに活気づき、1860年までの米国の特許許可数は3万6000件であったが、その後の30年間の「第1次プロパテント時代」には米国で44万件が許可されたとのことである。
§5日本人最初の米国特許取得者は横浜の花火師平山甚太
慶応4年(1866年)、美濃国不破郡岩手村出身で、福沢諭吉と共に長崎に遊学し,幕府の洋学校兼外交文書翻約局の長までつとめた神田孝平が『西洋雑誌』4号の「褒功私説」で外国の特許制度について紹介している。「褒功私説」で神田孝平は、『西洋諸国にはパテントという事あり。訳すれば褒功法という事なり』と記載して、patentを「褒功法」と,Patent Officeを「褒功院」と翻訳している。
高価な写真機を購入しアメリカ人から写真術を習い、財産の全てを傾けて写真術の研究をした下岡蓮杖(しもおか れんじょう)が、その後模倣者が出現して研究の出費をつぐなえなくなった例を紹介し、神田孝平は褒功法の制度を提言している。ただし、『西洋雑誌』4号では下岡蓮杖の実名を記載せず、「異人より写真鏡の法を伝習し来る者あり」と記載されている。
明治3年には、西周が私塾育英舎にて「亞墨利加に Patent Office とて、古今の發明せしものを集むる廳あり。…(中略)…此法ある唯タ亞墨利加のみならす萬國皆しかり(「百學連環」第33段落)」と講義している。
明治10年(1877年)に没した木戸孝允は、木戸孝允文書・四(後)にて、「もっとも意外に候は中人以下、婦人の勉強はなはだしく、米国どもにては大蔵駅逓〔これは省にあらず〕褒功〔これは新発明などのためにもっぱら建じ一省にて専売を許しその締めなどなせり〕諸省のごときは過半は給金取りの婦人にて、まことにその職務男子よりも綿密に尽くし申し候。」と記載している(巻12・477)。
日本が特許制度を導入したのは明治18年(1885年)であったが、その2年前の明治16年(1883年)3月に横浜の花火師平山甚太が米国の代理人に直接コンタクトして、米国特許庁に出願している。最初の出願は、書類の不備で拒絶されたが、あきらめず、明治16年6月に再度出願し、8月に特許登録されている(米国特許第282891号)。1880年には模型等の提出が義務づけられていなかったので、平山甚太は書面だけを米国特許庁に提出すればよかったものと思われる。
玉蟲左太夫が切腹した後5年ぐらい経た明治7~8年頃、三河国吉田藩の武士平山甚太は、福沢諭吉の門下生である豊前中津藩士岩田茂穂と共に横浜に「平山煙火製造所」を設立した。明治10年に横浜で日本初の花火大会を開催し、煙火業界初の紅雨聯星青珠という色の付いた煙火を上げた。
それ以降、平山甚太は横浜での花火大会を開催を毎年継続したが、それを見た多くの外国人が絶賛したので、これをきっかけに英国や米国への花火の輸出をスタートした。明治14年には職人5人を米国に派遣し花火大会を開催している。平山甚太の娘アサジの夫である岩田茂穂は、明治16年(1883年)にはニューヨークのカレッジに留学していたという。
しかし、平山甚太は外国による花火の模倣に苦しんだ。そこで、自らの花火技術を保護するために外務省に相談したが、英国では特許取得は無理と云われて、米国特許を取得したのである(外務省外交史料館の外務省記録B11091538100には、明治11年に横浜住平山甚太が専売特許請求をしたとの記録がある。)。平山の米国特許第282891号は仕掛けの花火に関する「物の発明」の特許である。
なお、外務省外交史料館の外務省記録には、明治8~10年に米国人テイツレルが専売特許を請求した(B11091537900)こと、及び明治9年にドイツ人ウィルトが専売特許を請求した(B11091538000)という記録も残っている。
請求項1には、花火玉の殻と、この殻の中に、火薬とともに軽量素材で作った人形や鳥形を一緒に詰められた構造であることが規定され、更に打ち上げた際に中からそれらが飛び出し、空中をゆらゆらと漂うことが規定されている。平山の米国特許第282891号の図1には、花火玉の殻の中に詰められる鳥の絵が記載されている。
日本が国際的特許の条約であるパリ条約に加入したのは、平山甚太が特許取得してから16年後の、明治32年(1899年)である。平山甚太の花火は、明治37年(1904年)のセントルイス万国博では最高金牌を受賞している。大正12年(1923年)まで横浜では、平山煙火が毎年打ち上げられていたそうである。残念ながらグローバルな視野のもとで、我が国最初の知財戦略を展開した「平山煙火製造所」はその後廃業している。獅子文六は、平山甚太の娘アサジと岩田茂穂との間の長男で、平山甚太の死後アサジが花火の輸出をしていたようであるが、獅子文六は家業の傾いた大正11年(1922年)に渡仏している。
米国特許第282891号に記載されているような、和紙等の軽量素材で作った人形が花火玉の破裂と共に、空中をゆらゆらと漂う花火は戦後禁止になり、職人もいなくなって、技術も途絶えてしまったということである。2010年11月の日米首脳会談においてオバマ大統領が、この平山甚太の米国特許の複製を当時の菅総理に贈っている。
2013年に「平山花火」がオランダで見つかり、横浜開港資料館(横浜市中区)に寄贈された。花火玉の表面に漆が塗られ、米国特許のシールが貼られているとのことである。
なお、安土桃山時代まで更に300年ほど溯るが、唐人による近代花火を伊達政宗が米沢城で1589年(天正17年)に見たという記述がある(「伊達家治家記録」参照。)。日本人が最初に近代花火を楽しんだときとされている。
辨理士・技術コンサルタント(工学博士 IEEE Life member)鈴木壯兵衞でした。
そうべえ国際特許事務所ホームページ http://www.soh-vehe.jp