文化の違いによるコミュニケーションのあり方①
新年明けましておめでとうございます。
本年も、より多くの人や企業が「仕事を通じて成長し、人生を豊かにしていく」
ことができるよう邁進してまいります。
本年最初のコラムはその「仕事」の意味について書かせていただきます。
世間では、「働き方改革」が注目を浴びています。
労働時間の短縮による生産性の向上が取り沙汰されることが多いですが、
「社会を豊かにし、そこに生きる人が幸せになる」ことを目的にした場合、
世間で報道される内容を見ていると少し本質が置き去りにされているように感じます。
元々、「働く」ということにはどういう意味があるのでしょうか?
資本主義社会では、収入を得るために「働く」という観点は日本も欧米でも昔からありますが、
その背景にある仕事に対する考え方には違いがあります。
キリスト教文化では、労働は神が人間に貸した「罰」という考え方があって、
余暇こそが大切との考えがあります。
一方、日本神話では農業の神や鍛治の神のように、神々の分業体系があり、
集団に所属する上で何らかの「使命」を果たすことが仕事の意味になっていました。
そういうことから、日本では「働く」とは「傍(はた)を楽にする」という意味があり、
お客様に価値を提供することにより喜ばれる、
一緒に仕事をする仲間と支えあいながら幸せになる道と理解されてきたわけです。
利他の精神を持って懸命に取り組むことで、人間的にも成長し、
自らの仕事に誇りを持てるようになるというワークスタイルがあったと思います。
では、今議論をされている「生産性向上」にはどういう意味があるのでしょうか?
(先進34ヵ国で構成されるOECD(経済協力開発機構)加盟国の2012年の労働生産性を見ると、
日本の労働生産性は34ヵ国中第21位というデータもあり、
日本人の生産性向上が働き方改革の一つのアジェンダになっている)
日本の伝統で考えると、競争社会において「収入(利益)」を増やすためだけでなく、
それぞれの企業が掲げる「使命」を果たし続けるため、という二つ目の意味が加わってきます。
「どうしたら少ない時間でお客様により大きな価値をお届けできるのか?」という発想です。
一方、キリスト教的に考えれば、「収入(利益)」を増やし「余暇」を充実させるためになります。
この考えの前提には、「仕事」に関わる長い時間が苦役という捉え方があり、
「どうしたら少ない時間で労働を終わらせることができるのか?」となるのではないかと思います。
社会環境の中で自分がどちらの価値観に支配されているのかを自覚をすること、
その上で長期的に繁栄し、真に豊かな人生を歩む上で、
どういう立ち位置を取っていくかを自分で考える必要があります。
日本人の生産性の低さの背景には、
「勤勉は美徳」という価値観から生産性に目を向けてこなかったという原因があると思います。
一方で、本来の目的・使命を果たすことを見失った目標追求(生産性の向上)になっても
幸せな社会は実現できないでしょう。
昨年起きたような悲惨な事件が起きないようにすることは第一だと思いますし、
非人道的な強制労働による被害者を出すことがあってはなりません。
そのためにどうすべきかということを考える際、
この仕事の持つ意味合いという観点はとても大切だと考えます。
ピーター・ドラッカーも以下のような言葉を残しています。
「仕事の生産性をあげるうえで必要とされるものと、
人が生き生きと働くうえで必要とされるものは違う。
したがって、仕事の論理と労働の力学の双方に従ってマネジメントしなければならない。
働く者が満足しても、仕事が生産的に行われなければ失敗である。
逆に仕事が生産的に行われても、人が生き生きと働けなければ失敗である 」
本来の「仕事」の意味合いを考え、
「使命感」を持って仕事にいそしめる企業集団を増やすことを皆で目指していければと思います。
ではどうすれば良いのか、
明日のコラムでは一つの切り口を紹介させていただきます。
(つづく)