オルネラ・ヴァノー二「逢いびき」
JR予讃線「伊予桜井駅」から北東に1kmほど、「綱敷天満神社」の境内の拝殿少し手前に「月賦販賣發祥記念の碑」と書かれた石碑があります。
「今治市」の産業といえば「タオル」と「造船業」ですが、“割賦販売”という金融システムのルーツが、「今治市」にあることはあまり知られていません。
「江戸時代」に“伊予商人”と呼ばれた「桜井」を中心とした商人達は、西日本各地に“椀船”と呼ばれる回船を出して、「春は唐津、秋は紀州」というように、佐賀「伊万里」や「唐津」の陶器を「大阪」方面に送り、帰りの船で紀伊「黒江」(海南市)の漆器を仕入れ、立ち寄った港で行商していたといいます。
この漆器の販売が好調であったことから、「伊予商人」達は「桜井」でも漆器を作ろうと考え、製造方法などを工夫した結果、丈夫さと安さが魅力の“桜井漆器”が完成し、「九州地方」では紀州の漆器に負けない売れ行きを見せたそうです。
「明治」末期から「大正」にかけての行商は、先遣隊が広告宣伝を行い集会所などで見本を陳列して注文を取り、その後、商品配達の際に集金してまわるという分業方式が採用され、この集金方法に「月賦」方式が採用されたといいます。
高価な漆器の購買に各月毎の分割払いはとても便利なシステムで、取引相手との「信用取引」は現在のクレジットと
同じで、明治40年前後に確立されています。記録によると、頭金1割、18ヶ月分割というような条件であったようです。
割賦販売は漆器以外の商品にも適用されるようになり、家具・衣料などの月賦販売が「東京」や「大阪」などで開始され、のちの“月賦百貨店”へと変化していったのです。
昭和50年代の調査では、500社を超える全国の月賦百貨店組合員のうち、90パーセント以上が「今治」を中心とする「伊予商人」で占められていたといわれています。
タウ・プロジェクトマネジメンツ一級建築士事務所