解決のための大前提にあるものは、親が成長して親に成っていくこと。
目 次
1.崩れゆく家庭教育
2.しつけ以上に大切なこと
3.マニュアル依存の子育ては人をつくらない
4.日本の精神文化の水脈に流れるもの
5.子どもは親のふるまいを見て育つ
崩れゆく家庭教育
核家族化や地域のコミュニティが希薄化している現在、家庭教育を地域や社会で支えていく
対策がもっと必要になってくるでしょう。
当協会もかねてより、不登校、ひきこもり、ニートなどの家庭問題支援を行っている中で、
単なる躾教育に偏らない家庭教育の実践が急務の課題であることを痛感しています。
と言いますのも、躾は「お行儀良く」といった見える部分に囚われがちです。
児童虐待の親たちが、決まって「躾のつもりでやりました」と言っているのでも分かります。
ですから過度の躾はかえって危険を伴うのです。
しつけ以上に大切なこと
私が日頃思いますのは、躾は「挨拶・返事・後始末」ができるように育てていれば
それで十分ということです。
それよりも子どもたちの自尊感情、自己信頼感を育てることの方が
より重要です。
健全な自尊感情がそなわっていない子どもは、ストレスに対して非常に脆弱ですし、
他者との関わりを避けるようになります。
確たる自分を持ち合わせない子どもは、「見知られ不安」「さとられ不安」といった
不安に怯え、人を遠ざけ自身を孤立化させるか、弱者を見つけ出し攻撃(イジメ)することで、
自分の存在感を保とうとします。
自尊感情、自己信頼感を育てるためには、否定しない、けなさない、脅かさない、褒める、
認める、感謝するということが必要です。
それらが意識しなくてもできるようになるためには、「敬い」の姿勢をもつことです。
マニュアル依存の子育ては人をつくらない
価値観が多様化している現在、子育てに悩む親たちは沢山いますが、ともすると子育て論は、
その方法論に偏りがちです。
子育てマニュアル本なども多くみられるようですが、方法論に囚われると
「仏作って魂入れず」といった状況になってしまっています。
重要なのは、わが子と関わる姿勢・態度なのです。
わが子の存在を敬い、尊重する姿勢・態度があれば、わが子を大切に扱います。
大切に扱うということは、どういうことかと言うと、成長を促すということです。
日本の精神文化の水脈に流れるもの
日本のことを「食国(ヲスクニ)」とも言います。(万葉集)
「ヲス」という言霊には、人民に「食」を不自由させないという概念が
含まれています。
古代から日本人は「食」という人間の基本的な行為を神聖なものとして大切にしてきました。
伊勢神宮の外宮の御饌殿(みけでん)では、毎日、朝と夕に神さまに食事を与える
「日別朝夕大御饌祭(ひごとあさゆうおおみけ)」が厳粛に執行されています。
食物を生命そのもの、神そのものと捉えていたのです。
「いただきます」は食べ物を与えてくれる大自然(神)の存在を信じて感謝し、
命の大切さ、生かされている意味が込められています。
「食べる(タベル)」という言葉も「賜る(タマワル)」から発しています。
神さまから食べ物を頂くから賜るのです。
飯(メシ)も神さまに最初に召し(メシ)上がって頂く「メシ」ですので、
本来丁寧な言葉なのです。
近年は、食育といったことがよく聞かれますが、子どもたちにこういった日本文化に残る
食の精神性こそ教(ヲシ)えていくことが必要ではないでしょうか。
「ヲス」の精神を教えていくのが本来の「教(ヲシ)え」なのですから。
子どもは親のふるまいを見て育つ
「教育」と申しますが、家庭教育では特に「育」育てるを意識した方が
良いかと思います。
つまり、わが子の天分(資質、才覚、個性、独自性)を引き出す、本来ある
可能性としての成長のお邪魔をしないということです。
「成長」を基準に考えれば、何を許し、何を許せないかが自ずと判断できます。
子どもに嫌われたくないからと、要求に応じるだけの態度は、決してわが子を大切にして
いるとは言えません。
子どもたちは、両親の姿勢・態度から常に安心を得たいと望んでいます。
学校に行けなくなった時、いじめられた時、非行をした時、ひきこもった時、
そういった際の両親の姿勢・態度で、新たな傷を受けてしまっているケースも
非常に多いのです。
子育てを通して、親もまた育っていかなければなりません。