【対談】交通事故で過失ゼロなのに、保険会社が動いてくれない?

さぁ、今週も金曜日になりました。
福岡を語る上で、忘れてはいけない人がいます。
生まれた環境によって、
人生の選択肢が限られてしまうことがあります。
それでも、自分の力で道を切り開き、
やがて地域を動かす立場にまで上り詰めた人物がいました。
今回は、福岡県遠賀郡芦屋(おんがぐんあしや)生まれ。
吉田磯吉(よしだ いそきち/1867年~1936年)。
若松の港湾社会で頭角を現し、
国会議員としても活躍した人のお話です。
貧しい幼少期から始まった人生
吉田磯吉は、慶応3年(1867年)。
現在の福岡県遠賀郡芦屋町に生まれました。
父の徳平は、もともと松山藩士の家に生まれた人物でした。
しかし、藩を離れ、各地を転々とした末に芦屋へ移り住んだとされています。
吉田磯吉が幼い頃、
一家は貧しい生活を送っていました。
父を早くに亡くしたこともあり、
生活は厳しく、吉田磯吉は幼くして働き始めます。
丁稚奉公に出たり、
野菜や魚などを売り歩いたりしながら、
家計を支えたと伝えられています。
武士の家に連なる家系でありながら、
暮らしは決して恵まれていなかった。
生まれた家柄だけで、
将来が約束される時代ではありませんでした。
吉田磯吉は、そうした環境のなかで成長していきます。
遠賀川の水運から、若松の港へ
吉田磯吉が16歳頃になると、
遠賀川を行き来する「川ひらた」と呼ばれる船の船頭として働くようになります。
当時、遠賀川は筑豊の石炭を運ぶ重要な水運の一つ。
鉄道網が整備されていく以前、
川を利用した輸送は地域の産業と暮らしを支えていました。
船を操り、荷を運ぶ仕事。
体力だけでなく、経験や判断力も必要です。
吉田磯吉は水運の世界で人々と関わりながら、
次第に存在感を高めていきました。
やがて、石炭産業の発展とともに若松港が重要性を増していきます。
筑豊で採掘された石炭を船に積み込み、各地へ送り出す若松。
そこには、荷役を担う労働者、
仕事を請け負う業者、商人、船主など、
さまざまな立場の人々が集まっていました。
吉田磯吉も活動の場を若松へと広げ、
港の周辺で影響力を持つようになります。
その力は、単に船を操る技術だけで得られたものではありません。
人とのつながりを築き、
利害がぶつかる場面で調整し、
時には対立にも向き合う。
そうした港町の社会のなかで、
吉田磯吉は頭角を現していったのです。
「川筋の親分」と呼ばれた男
吉田磯吉を語るとき、
しばしば登場する言葉があります。
「川筋者(かわすじもん)」です。
遠賀川流域や筑豊の炭鉱、
若松の港湾社会などで形成された人間関係や気風を背景。
吉田磯吉は地域の有力者として知られるようになりました。
人々から「親分」と呼ばれた吉田磯吉は、
港湾労働や地域社会のさまざまな問題に関わっていきます。
現在のように労働関係の制度や紛争処理の仕組みが十分に整っていない時代。
仕事をめぐる対立や業者間の争いが起きれば、
地域の有力者が仲裁に入ることもありました。
吉田磯吉は、そうした場面で大きな影響力を持つ人物でした。
人をまとめることと勢力関係
ただし、ここで注意したいことがあります。
人々をまとめる力や仲裁する力があった一方で、
当時の港湾社会には、暴力や威圧を背景とした勢力関係も存在しました。
吉田磯吉の活動も、
そうした時代の構造と切り離して理解することはできません。
後世には「九州の大親分」とも称されましたが、
その呼び名だけで人物を美化してしまうと、
実際の社会の姿を見誤ることになります。
一人の人物が大きな影響力を持つということは、
その人物の判断が多くの人の仕事や暮らしに関わるということでもありました。
吉田磯吉の生涯は、
近代日本の地域社会において、
権力や人望がどのように形成されていったのかを考える手がかりになります。
地域の有力者から国会議員へ
吉田磯吉は、
港湾社会で築いた影響力を背景に、
やがて政治の世界へと進みます。
大正4年(1915年)、衆議院議員に初当選。
その後も選挙で当選を重ね、
衆議院議員として国政に関わります。
港や地域社会で人々と接してきた人物が、
国の政治を担う立場へと進んだのです。
当時の日本は、
産業構造が大きく変わり、
都市や港湾の発展が進む。
その一方、労働や生活をめぐる問題も抱えていました。
地域で生じる問題を調整する力と、
国の制度を動かす政治の力。
その両方に関わることになった吉田磯吉の歩みは、
明治から大正、昭和初期へと続く社会の変化を映し出しています。
もちろん、
地域での影響力が、
そのまま政治家としての評価につながるわけではありません。
遠賀川の船頭から出発した人物は国政の舞台へ
政治家として何を実現し、
どのような政策に関わったのかは、
地域の逸話とは分けて検証する必要があります。
それでも、
遠賀川の船頭から出発した人物が、
国政の舞台に立ったことは、
吉田磯吉の生涯を特徴づける大きな転機でした。
昭和11年(1936年)1月17日、
吉田磯吉は69歳で亡くなります。
葬儀には、
雪のなかにもかかわらず、
約2万人が参列したと北九州市の資料に記されています。
その規模からも、
吉田磯吉が地域で広く知られ、
多くの人々と関わりを持っていたことがうかがえます。
玉井金五郎、杉山茂丸とのつながり
吉田磯吉の生涯を追うと、
前回紹介した玉井金五郎、
そして次回取り上げたい杉山茂丸へとつながっていきます。
玉井金五郎は、
愛媛から若松へ渡り、
港湾労働の世界で玉井組を築いた人物でした。
吉田磯吉もまた、
若松の港湾社会で大きな影響力を持っていました。
二人は、同じ時代の若松。
それぞれの立場から港の世界に関わっていたのです。
火野葦平の小説『花と龍』には、
吉田磯吉が実名で登場します。
作品のなかでは、
金五郎の前に立ちはだかる存在として描かれる場面もある。
また、手を差し伸べる存在として描かれる場面も。
ただし、小説は史実をそのまま記録したものではありません。
物語上の対立や人物描写を、
そのまま実際の二人の関係とみなすことはできません。
一方で、
芦屋の歴史をたどると、
吉田磯吉と杉山茂丸の縁も見えてきます。
杉山茂丸は、
明治から昭和初期にかけて政財界に影響力を持った人物です。
杉山家と吉田家のつながりは、
明治初頭の芦屋にさかのぼります。
芦屋で育った杉山茂丸と、
同じ土地に生まれた吉田磯吉。二人は後年、
それぞれ異なる立場から政治や社会に関わることになりました。
さらに、玉井家・吉田家・杉山家という三つの家の歴史をたどることで、芦屋と若松を結ぶ人々の縁が浮かび上がってきます。
一人の人物の生涯を調べていくと、
地域の歴史や、ほかの人物の人生を知る入口にもなると感じています。
編集後記
人から頼られる人には、
どんな力があるのでしょうか。
知識や経験。
判断の速さ。
困ったときに動いてくれる行動力。
さまざまな要素が考えられます。
吉田磯吉は、
港湾社会で影響力を持ち、
地域の有力者から国会議員へと活動の場を広げた人物でした。
ただ、
人をまとめる力があることと、
その人の判断がいつも正しいことは別。
頼られる人の言葉だからこそ、
周囲が疑問を口にできなくなることもある。
反対に、
周囲から厳しい目を向けられる人であっても、
その人が担ってきた役割や、
実際に行ったことを確かめなければ、
人物の全体像は見えてきません。
だからこそ、肩書や評判だけで人を判断してしてはいけない。
けれど、その人が何をしてきたのか。
誰にどのような影響を与えたのか。
そこまで見ていくことで、
判断基準は少しずつ具体的になっていきます。
人を見るときも、
組織を考えるときも、
表に見える力だけで判断しない。
吉田磯吉の生涯は、
そんな視点を持つきっかけになるのではないでしょうか。


