阪神・淡路大震災:記憶を胸に未来へ向った30年

鎌田千穂

鎌田千穂

テーマ:心のあり方のヒント

竹あかり

記憶を胸に未来へ向った30年

阪神・淡路大震災から30年。
早いものです。。。
当時の私は、テレビで惨事をみて慄くばかり。

その後、私は西方沖地震の体験をします。
家があり、安心して眠れることのありがたさ。
朝は寝たときと同じ場所で何事もなく目覚める幸せに日々感謝です。

そして、東北、熊本、去年は能登の震災。
能登の震災から1年。
日常を取り戻したい気持ちが強くて懸命になる事ともどかしさの繰り返しが今も続いているのではないでしょうか。

皆様が経験された困難な時期を経た力強さに心からの敬意と感謝を捧げます。
そして、時が止まってしまっている方には、命があるからこその沢山の願いを抱えて、未来へ向かう一歩となりますように。

このメッセージが、少しでも皆様の心に寄り添えますように。

町の発展の基礎を築いた渡辺與八郎

道を造ることが町の発展につながる

この言葉に全てをかけた渡辺與八郎(わたなべよはちろう)の思いは、今も福岡市の発展の中で生き続けています。
明治初期に3mだった道を15mに拡大するという彼の取り組みは、いまでは私たちの生活に無くてはならない偉業を成し遂げた証です。

その通りの名を「渡辺通り」といいます。

渡辺與八郎ってだれ?

渡辺與八郎は1866(慶応2)年に生まれ、博多の呉服商「紙与」の3代目。
彼は家業の発展に尽力する一方で、福岡・博多の近代化に向けた数多くの事業に関わり、資金援助や寄付を通じて地域の人々を支えました。

肥前堀の埋め立て、西鉄グループ、JR九州となる、電車の敷設、沿線開発。
九州大学の誘致、柳町遊郭の移転、専売公社工場の移転など、まだまだ沢山。
時には先導し、時には後方支援で行っている、都市開発事業そのものをなし得た御仁。

その人柄と面倒見の良さから、多くの人々が彼に助けを求めたようです。

祖父や父も影響

渡辺與八郎の祖父・與助は、1794(寛政6)年に筑前国穂波郡伊川村に生まれました。
1807(文化4)年、わずか13歳で博多・須崎の楢崎(屋号・紙次郎)へ丁稚奉公に入り、その後22歳で年季明けと共に番頭に昇進しました。

1828(文政11)年には、大地震や津波、洪水、台風などの災害が博多を襲い、町や藩が長期にわたって困窮する中、與助は旅商人(行商)として地道に努力を重ねています。
1835(天保6)年、42歳で「紙屋與助」として独立。

與八郎の父は、祖父の與助の死に伴い、25歳で家業を継ぎます。
幕末の動乱期の「大坂くづれ」に遭遇し、機転を効かせて事業はするものの、長州軍・高杉晋作率いる奇兵隊に抑留されています。
命がけで商機を握った與助は博多商人としての地歩を固め、九州一の呉服商「紙與」を作りました。

道と橋を造る使命感

そんな中で、福岡を渡辺與八郎は、街の繁栄と発展のために、道路や橋を作ることを自らの使命と感じ、私財を投じ、銀行から資金を借りてまで事業に尽力。

彼の行動は、地域社会に大きな影響を与え、「渡辺通り」としてその名を遺しました。
渡辺與八郎がいなければ、今日の福岡市の発展はなかったと言っても過言ではありません。

未来への希望と共に

震災からの復興に向けた皆様の努力は、渡辺與八郎のような先人たちの精神と重なります。
困難な状況に立ち向かい、未来への希望を抱き続ける姿勢は、町の発展と繁栄を支える礎となっています。

阪神・淡路大震災から30年、能登の震災から1年。
皆様の歩みが紡がれて、これからも共に前を向いて歩む日々。

沢山の方と関わり合い、止まった時が安らぎにかわることを願い。
そして、薄れること無く減災に力をいれる大切さが脈々と受け継がれていくよう、何かしらの取組を私も行っていきます。

\プロのサービスをここから予約・申込みできます/

鎌田千穂プロのサービスメニューを見る

リンクをコピーしました

Mybestpro Members

鎌田千穂
専門家

鎌田千穂(産業カウンセラー)

Chi-ho’s studio

組織課題を広い視野で捉え、主体性を持った思考と行動力、公私の均衡を図る自律型人材育成を行うこと。分析・統計による業務改善の解決策を示し、個人の悩みを解き放ち、企業の繁栄に繋げることが専門です。

鎌田千穂プロは九州朝日放送が厳正なる審査をした登録専門家です

関連するコラム

プロのおすすめするコラム

コラムテーマ

コラム一覧に戻る

プロのインタビューを読む

業務改善と人材育成のプロ

鎌田千穂プロへの仕事の相談・依頼

仕事の相談・依頼