あるがままの美学とわがままの壁
教育という言葉があります。
その教育というそのものの本質を常々私は考えています。
その教育の本質とは何ぞやというところで
私は「生きる」ことそのものだと認識しています。
そして、その本質に基づいての原理原則は、「術を得る」というところではないでしょうか?
現代社会において、私が業務改善や人材育成の場面で、
「生きるために術を得る」そのことにより、
「困難に打ち勝つ能力を養う」事が可能となり、
世の中を生き抜いていく、そんなことを考えて、この仕事をしています。
また、教育の本質や原理原則を抜きに得たモノは、
その場しのぎのモノであり、技巧・技術・技法などいくら学んだとしても、
役にたてられないモノに変わってしまいそうです。
元来、教育や教えというものは、
先人が知った過ちや悲しみを繰り返さないように
先人が経験から、必要だからと教え語り継ぎいできたものではないでしょうか?
ですが、残念なことに、そもそも論は、豊かさを前にして、影に隠れてしまい、何のために学ぶのかという事が今では全く見えなくなっているんじゃないかなと強く感じてしまう事がおおくあります。
幼児教育から、時間の長短はあるけど、学校に行くことを平等に与えられる。
しかし、学んでいる本人達は、何のために、教科を習得し、それ以外に日直や当番があり、班をつくって日常生活を送っているのかさえ、受け身で疑問に思う事もなく、ただ言われるがまま日々を過ごすことが中心で、理解ができていないのかもしれません。
何を教えたかではなく、何が伝わったか。
私は、トレーニングを通じて、いつも何が伝わったのかを大事にしながら、自分を振り返り、受講者のフォローアップを怠ってはいけないと常々感じています。
研修やトレーニングをしたから、教えた=マスターできたと思うは、手抜きでしかありません。
また、そんなに簡単に教えてもらったことを完璧にマスターできるのであれば、何年も時間をかけて学ぶ必要はありません。
だからこそ、
知って、わかっても、出来る事と一緒にしてはいけないのです。
やはり、人生死ぬまで勉強の連続なんだなとこのブログを書きながら感じています。