理想像を描くことでメンタルを前向きに変える方法
遅ればせながら、最近「ニューロダイバシティ」に興味を持ちました。
「ダイバシティ」は大分以前から広まっていますが、「ニューロ」が付く概念があるとは知りませんでした。
自分の勉強も兼ねて考えてみたいと思います。
1.ニューロダイバシティとは
ニューロダイバシティは、教育や障害に対するアプローチであり、様々な神経疾患は普通のヒトゲノムの差異の結果として現れるのだ、ということを提唱する。
この用語は、1990年代後半に、神経学的多様性は本質的に病的なものであるとする通説に対抗するものとして現れた。
ニューロダイバシティは、神経学的差異は、ジェンダー、民族性、性的指向や障害と同様に、社会的カテゴリーとして認識され尊重されるべきであると主張する。
神経多様性あるいは脳の多様性とも呼ばれる。
(wikipedia)
何らかの脳の特徴によって、人は言動や性格、思考に特徴が現れます。その代表格が神経発達症(発達障害)でしょう。
最初は病気=治療して直さなければいけない負の側面として捉えられていたのが、ICFの概念によって「生活面から補完していけるもの」という転換が起きました。
いずれも治療者・支援者の立場から見た考え方だと思います。
このニューロダイバシティは、脳神経の多様性を持つ当事者から見た「神経学的差異」の主張なのでしょう。
自閉者の権利運動(AMR)がその代表格ではないでしょうか。
2.「理解する」という言葉への理解
「話し合えば理解できる、とは限らない」
という体験は誰でもあると思います。それは、理解できる、という言葉による解釈の違いではないでしょうか。
理解する、とはとても幅広く奥も深いコミュニケーションです。
相手の言っている言葉を言語として字義通り理解することからはじまって、その主張をする理由を知る、更に理由に対する自分の意見を伝える、その上で合意するとか、共感するとか、場合によっては手を組むこともあるでしょう。
ただ、言葉として理解した上で「でも自分はそのように考えない」と言う結論を出すこともあり得ます。
あって当然なのです。だってお互い別人格なのですから。
しかし「理解する」が「同意する・共感する・相手の言うことに従う」だけに限定されると、「違う」と言えなかったり、違う意見を持つことが悪いことではと思ってしまったり、第三者から(少数側が)「何故違うのだ」と非難されることにもなります。
人は皆同じだから(話し合えば)理解し合える、という前提がこびりついているからではないでしょうか。
逆なんですよね。
人はみな違うんです。
春が好きな人がいれば嫌いな人もいる、甘いものが好きな女の子も、嫌いな女の子もいて当たり前、99人が「いいね」する投稿にしない人がいても当然なのです。
自分と相手は違うのだ、ということを「知る」ことが「理解する」ことです。
ニューロダイバシティに限らず「ダイバシティ」とは、違いがあることを前提とする社会ではないでしょうか。
3.ケアラー視点からのニューロダイバシティ
で、私にとっては「ケアラー視点」から「ニューロダイバシティ」って何だろう、って考えてみました。
ケアラーという言葉の通り、何らかの精神疾患・精神障害を持つ家族を「ケア」する人ということです。
ケアという言葉が、本人からすると「?」になる場合もあるかもしれません。
症状によっては出来ないことがあります。
例えば
- 会社に行けない→仕事が出来ない→収入が得られない
- 人目が怖い→外出して家の用事が出来ない、人に会えない
- 夜眠れない→昼間眠くなる
こうした状況に対してはケアラーが対処する必要があります。
ですが多様性という視点から見ると、出来ることもあって当然なのです。
- 臨機応変な対応は苦手だけど手順が決まっていることなら得意
- 他の人が気づかないような細かい点まで目が行く
- 他の人が忖度して言えない意見を、必要な場面で言える
きっともっと色々あるでしょう。それを担当してもらえばいい。
ダイバシティは、家庭の中では「役割分担」に転換出来るのではないでしょうか。
4.障害者だけの視点ではない
多様性、というと、多数派(にいると思っている人)からすると、ごく一部の人だけの問題・課題だと思っているかもしれません。
ですが冷静に考えると、自分と何から何まで全部同じ、という他人なんてただの一人もいないんですよね。
学生時代には大の仲良しで学校でもそれ以外でも常に一緒にいたような友人が、卒業を機に進路が分かれて会うことも減った。数年後会ってみたら別人のように外見も考え方も変わっていた、という経験は誰にでもあると思います。
気が合うこと、一緒にいて楽しいこと、好きだなと思う相手は「同じだから」なのでしょうか。
実は「自分にはないものを持っているから」という理由をあげる人は多いはずです。
多様性とは、その感覚をアカデミックに対象を広くとった考え方なのではないでしょうか。
マクロな視点を、どんどん細分化して自分とその周囲に当てはめると、身近な感覚を思い出させてくれるはずです。
多様性は障害、人種、性別、国籍関係なく誰でも持っているものです。
自分にとって積極的にかかわろうとしない時に「多様性」という言葉が出てきて何やら小難しく感じる。
自分も家族も友人も、どんな人でも多様性がある。
違っていることが当たり前と思える世界がどんどん近づいてきている、その一つだと思いました。