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第76回 独創の精神を忘れ、台湾や韓国に追い抜かれた日本の半導体産業の凋落

鈴木壯兵衞

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テーマ:発明の仕方

 2018年に他界された西澤潤一先生は、「半導体の次は半導体である」と言っておられたが、現在の日本の半導体産業の衰退は極めて残念な状況である。岸田文雄首相は2021年に国内での半導体製造の強化に向け「官民あわせて1兆4000億円を超える大胆な投資を行う」と表明した。
 
 残念なことは、その内の700億円が投資される会社は、オランダの露光装置を基軸とする米国の技術を導入するということである。我が国は、西澤先生の他界とともに再び1950年代の欧米崇拝の志向に戻ってしまった。むしろ「戻る」というよりも、欧米崇拝のマインドが根強く日本人に残っているというのが正確かも知れない。
 
 

  

§1 「ミスター半導体」の登場:

 静電誘導型トランジスタ(SIT)の原理は、西澤先生が1950年に出願した発明(特公昭28-6077号公報)に記載されている。従来の電界効果トランジスタのドレイン電圧―ドレイン電流特性が飽和型の5極管特性であったのに対し、不飽和型のドレイン電圧―ドレイン電流特性(3極管特性)を示すトランジスタ(SIT)として、1950年のSITの発明が試作により具体化されたのは1970年である。
 
 1970年代後半になると、日本の各企業が、半導体メモリ分野において世界市場で急激な発展を遂げるが、このころになると西澤先生を「ミスター半導体」と呼ぶ声が聞こえてくるようになる。
 
 主要半導体企業の半導体メモリの開発の中心には西澤先生の弟子達がいました。西澤先生は(財)半導体研究振興会で半導体メモリも試作し、1977年にSITメモリの特許発明も出願している(特許第1144576号等多数)。

§2 平成9年(1997年)頃に失われた日本の半導体の活力

 筆者は、ミスター半導体として西澤先生が最も輝いていたのは1980年代と考えているが、西澤先生が輝いていた頃は、日本の半導体産業が最も活力のあった時期と思われる。
 
 1981年に西澤先生は新技術開発事業団(現JST)の創造科学推進事業(ERATO)のプロジェクトで、分子若しくは原子単位の微細構造の半導体装置を試作する研究を開始している。そして、米国の全米科学財団(NSF)は、1980年代にERATOに調査団を二回派遣している。米国以外の各国の科学技術アタッシェ達も、西澤先生の研究所を訪問している。
 
 1983 年になると米国の半導体工業会(SIA)が対日批判を展開し始めてくるようになる。日本の攻勢を受け、1985年には米国Intel社がDRAMから撤退し、1986年には日米半導体協定(第一次協定)が締結され、1991年には新たな日米半導体協定(第二次協定)が締結された。
 
 更に、1993年にW.J.クリントン(Clinton)が米国大統領に就任すると、対日通商・経済政策包括提案書が作成された。米国は日本の経常収支黒字の対国内総生産(GDP)比を3年間で半減させる方針を決め、日本側と交渉が開始された。
 
 第二次日米半導体協定の満期になる1997年の頃には、日本の半導体産業の勢いは失われてしまった。
 
 1998年には沖電気とパナソニックがダイナミックRAM(DRAM)事業から撤退している。1998年に東芝と1GビットDRAMの開発提携に合意した富士通は、1999年になるとDRAM事業から撤退している。2001年1月にはNECがDRAM事業から撤退を発表した。その12月には東芝もDRAM事業から撤退し、DRAM製造設備を米国マイクロン(Micro)テクノロジー社に売却することを発表している。
 
 NECと日立は「NEC日立メモリ」を2000年に設立し、その後「エルピーダメモリ」に社名を変更し、2002年に三菱のDRAM事業を吸収し、日本のDRAM製造会社は1社になった。最先端の半導体集積回路の製造には巨額の投資が必要であるが、収支が追いつかなくなってきたのが理由である。
 
 このような巨額の投資が必要な半導体研究の状況の中で、予算規模の極めて小さな財団法人を率い、西澤先生が世界最高の半導体集積回路を試作する研究を継続していた孤高な精神は脅威である。

§3 半導体産業の停滞とともに、特許出願件数が減少傾向に:

  1993年に我が国の世界に対する輸出シェアは全産業で9.9%程度あったが、クリントンの政策により、2005年には5.7%まで落ち込んだ。
 
 一方、日本国特許庁に出願される特許出願の件数は、ITバブルが崩壊した2001年をピークに、減少の傾向に転じた。その結果、1970年以来36年間、日本の特許出願件数は世界一の座を維持していたが、全産業の輸出シェアが5.7%まで落ち込んだ2005年に、日本の特許出願件数米国に抜き返された。
 
 日本の半導体の輸出シェア(売上高)は1988年度には世界の50.3%であった。1986~1992年に半導体の輸出シェアの上位10社に日本の企業が6社(NEC、東芝、日立、富士通、三菱、パナソニック)が含まれていた。
 
 しかし、1993年に半導体の輸出シェアが40%に落ち込んで米国にシェア1位の座を奪われると、その後も落ち込み続けることになる。

§4 独創技術の拠点としての(財)半導体研究振興会:

 (財)半導体研究振興会は、大学の基礎研究と産業界の研究の橋渡しを目的として1961年に、非営利の財団法人として設立されたが、西澤先生が最も心血を注いでいた独創技術の研究開発の拠点である。
 
 企業からの委託研究の進展が思わしくないとき、西澤先生が三度、自らの命を代償とすることを考えたと話すのを、筆者は聞いている。西澤先生は半導体研究所3号館に隣接する土地を購入し住まいを建てて生涯研究に携わって行きたいとの意思から、2006年には土地の移転登記まであったが、公益法人の土地であることから実現しなかった。
 
 (財)半導体研究振興会の収入源は特許のライセンスによる収益と企業からの委託研究が主であった。日本の半導体産業の停滞と共に企業からの委託研究は減少した。それどころか、2007年になると、日本の半導体産業の停滞は (財)半導体研究振興会の賛助会社を脱退したいという声を出させるようになる。
 
 日本の半導体産業の停滞は、1961年設立当時の「日本の独創技術を育てる」という西澤先生の理念を、日本の産業界が顧みられなくなる。そして、産学連携を標榜した(財)半導体研究振興会は、日本の半導体産業の減速と連携して衰退をたどり、2008年3月に資金難で解散した。西澤先生は自らの命を賭していた研究活動の拠点を失うことになった。
 
 (財)半導体研究振興会の解散の直前であるが、西澤先生に面会した著者は、別の半導体研究所を設立したらどうかと提案したことがある。そして、上智大の尽力により、2010年10月に上智大学に半導体研究所が設立された。
 
 不幸にも、西澤先生はその上智大学半導体研究所設立記念式典の当日に病気を発症し、仙台に戻ることになった。仙台に戻ってからも、弟子の指導は続けていたが、その活力は小さくならざるを得なかった。
 
 そして、1980年代の日本の「産業の米」と言われた半導体産業の停滞は、我が国の世界に対する全産業の輸出シェアを落ち込み続けさせ、2015年には3.9%になっている。
【図1】米国特許を取得している世界の企業の件数ランキングの推移

 図1に示した米国特許取得件数のランキングの推移は、日本の半導体産業の凋落を反映しているように思われる。NEC、日立、三菱の3社のDRAM事業を統合したエルピーダメモリは2012年に経営破綻し米国のマイクロン・テクノロジーに買収されている。NEC、日立、三菱の3社のシステムLSI部門を統合したルネサスエレクトロニクスは経営悪化の後、2013年に日本政府系の産業革新機構の傘下となった。2014年に富士通が、2019年にパナソニックが半導体事業から完全撤退の方針を発表している。

 米国特許商標庁(米国特許第TO)における審査の期間が2~3年必要と考えますと、2011年の米国特許取得件数のデータは、リーマンショックのあった2008年頃の出願に対応すると考えられます。特許出願に関し、多くの日本企業はリーマンショック後に「量から質への転換」をしたと言われている。
 
 しかし、米国特許第TOの審査官は、米国に出願された特許の内で質の高い特許を選んで許可し、米国特許として登録されるので、「量は質の一態様」と言えるであろう。即ち、図1は、多くの日本企業の質がリーマンショック以降において低下し、独創性を尊重する意識に問題が生じ、これが日本企業の知的財産権の取得の意識を抑制しているように思われる。
 
 2008年は、(財)半導体研究振興会が解散した年でもある。日本の半導体産業の浮き沈みは西澤先生と共にあったと筆者が考える所以である。
 
【図2】米国特許を取得ランキングで躍進している、韓国、台湾、中国の企業

 図2に示すように、2022年のランキングでは、トヨタが10位に入ったので、2022年の米国特許取得ランキングの上位10社に含まれる日本企業は2社である。トヨタは2015年にランキング17位になって以降、図2に示すように、20位→14位→13位→16位→14位→12位となって遂に2022年に10位になった。
 
 最近の状況で見る限り、トヨタは、日本で唯一ランキングが上昇している企業である。

§6 恐ろしい三星電子の勢い:

 1983年に韓国の三星電子(Samsung)のDRAMの第1工場が日本の技術支援で設立されている。三星電子は、西澤先生が所長を務める(財)半導体研究振興会・半導体研究所に、1980年代の前半に研究生を派遣していた

 1980年代の後半~90年代にかけて、週末のソウル行きの飛行機は、「土日ソウル通い」の日本人技術者で満席にされていたと言われている。「土日ソウル通い」による情報と、在席していた77名のヘッドハンティングされた日本人を含む外国人技術顧問の力により、1992年には、マスク枚数を減らすことにより、日本の技術よりも工程数を減らした64M DRAMの開発に成功している。
 
 三星電子は、1993年にDRAM市場の13.5%のシェア世界1位になり、それまでシェア世界1位の東芝を抜くことになる。三星電子は、西澤先生の弟子が東芝で発明したNAND型フラッシュメモリに関し1994年に東芝と技術提携し、2002年にNAND型フラッシュメモリのシェアを世界1位にしている。日本の技術者の「土日ソウル通い」は2012年頃まであったようである。
 
 三星電子は、図1に示すように2006年~2021年まで16年間、米国特許取得件数のランキング2位の座に甘んじていた。しかし、遂に2022年に三星電子はそれまで29年連続1位の米国IBM社を抜いた。図1及び図2は各年の米国特許取得件数のデータであるが、米国での累積保有特許数では、三星電子は2020年にIBM社を抜き、1位になっている。

§7 日本は台湾積体電路製造社に指導を受ける?:

 日本の半導体の輸出シェアは、1993年以降も落ち込み続け、2021年の半導体集積回路の輸出額が一番多いのは中国で15.3%のシェアである。中国の次に、台湾、韓国、マレーシア、米国と続きますが、日本は世界ランキングの上位5国にも入っていません。OMDIA社の調査等によれば、2022年の半導体企業の売上高の世界ランキングの上位10社に日本の企業は含まれていません。

 図2に示すように、1987年に設立された台湾の半導体受託生産会社である台湾積体電路製造(TSMC)社が2022年の米国特許取得件数のランキングでは3位に入っている。今、日本にTSMCの工場を誘致し、政府が支援してTSMCの技術レベルに追い付こうとする動きがある。
 
 図2に示すように、2022年の米国特許取得件数のランキングでは、中国の華為技術(HUAWEI)社が4位となった。TSMC社が3位、HUAWEI社が4位に入ることにより、2011年より11年間3位の座を保っていたキャノンが5位に転落した。
 
 そして、6位には韓国のLG電子が入っている。LG電子は金星社と呼ばれていた1980年代の前半には、西澤先生の半導体研究所に研究生を送っていた。
 
 なお、米国知的財産所有者協会(IPO)の米国特許取得件数ランキングでは、1-2位は図1と同じであるが、3位がLGグループ、4位がトヨタグループ、5位がキャノングループ、6位がTSMC社、7位がHUAWEI社、8位が中国の京東方科技集団(BOEグループ)になっている。図1のデータとの違いは、グループ企業(子会社)の米国特許取得件数を連結しているか否かの違いと思われる。

§8 巨人たちの肩に安易に乗らない研究法を示した西澤先生:

 哲学者ベルナール(Bernardus)の言葉を引用して、I.ニュートンが「私がかなたを見渡せたのだとしたら、それは巨人たち(Giants)の肩の上に立っていたからです」と述べたとされている。
 
 科学技術や学術研究は、多様な先人たち(Giants)の業績や研究過程の累積で構築されている。しかし、この累積は単なる結果や結論の累積ではなく、その結果や結論を導くに至った、多様な先人たちの思考の過程の学習が重要である。
 
 このコラムの第63回の図4等に示した結晶成長装置の例からも分かるとおり、西澤先生は、外国の技術を導入するのではなく、独自の発想で自ら考え、自ら研究装置を造って、基本原理の根本から調べ直すところから研究をしていた。第63回の図4等に示したフローティングゾーン法によるシリコン(Si)の結晶成長装は、予算の関係で西澤自作の高周波発信器の回路部品が揃わず、完成までに3年も要した装置である。
 
 米国のベル研究所のプファン(Pfann)らは、1951年に出願されたゾーンメルティング法に関する米国特許第27390888号を改良して、図3に示すようなSiのフローティングゾーン法の米国特許第2875108号を1957年に出願している。
 【図3】プファンらによる米国特許第2875108号の図4

 予算の関係で遅れてしまったが、第63回で紹介した結晶成長装置は、自作の開始時期の1953年で比較すれば、Siのフローティングゾーン法に関し、西澤先生は世界でも先端にいたと考えることができる。西澤先生は欧米の真似をするのではなく、独自にSiの結晶を成長させることを探求していたのである。
 
 このコラムの第62回で、弱冠23歳の学生である西澤先生が、英国のN.F.モット(Mott)とドイツのW.ショットキィ(Schottky)の理論は間違っていると主張し、学会から猛反発を受けた例を説明した。
  
  モットは、その後1977年にノーベル物理学賞を受賞に至る権威である。ショットキィは、ヨーロッパ大陸北部では最大、且つ最古(1419年設置)に属するロストック(Rostock)大学の教授である。なお、ドイツ最古の大学は、1386年創立のハイデルベルク(Heidelberg)大学である。
 
 西澤先生の研究は、巨人たちの肩に安易に乗らないやり方であった。西澤先生は、巨人と雖も信用せず、先ず自分で確認した上で乗るようにしていたと考える。今こそ、西澤先生の独創研究の思考方法を再確認し、学習する必要がある。
 
    弁理士鈴木壯兵衞(工学博士 IEEE Life member)でした。
    そうべえ国際特許事務所は、「独創とは必然の先見」という創作活動の
    ご相談にも積極的にお手伝いします。
              http://www.soh-vehe.jp

 






 

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専門家

鈴木壯兵衞(弁理士)

そうべえ国際特許事務所

外国出願を含み、東京で1000件以上の特許出願したグローバルな実績を生かし、出願を支援。最先端の研究者であった技術的理解力をベースとし、国際的な特許出願や商標出願等ができるように中小企業等を支援する。

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