第7回 ケネディー大統領の「コンシューマー・ドクトリン」と特許
西澤潤一第17代東北大総長が他界されてから1年を過ぎた。今回、西澤先生が14歳~24歳の間に、121枚の水彩画やペン画等を描かれていたことが分かった。西澤先生が水彩画等を描いておられたことは、西澤先生のお弟子さんの中にも知らない方がかなりおられるようである。
今回発見された絵画は、西澤先生が14歳~24歳の間に描かれた水彩画等であるが、発見された絵の内容のいずれもが、西澤先生の精神の集中が感じられる、素晴らしい出来映えである。
【図1】西澤先生が昭和24年9月3日に描かれた水彩画(生涯最後の絵画と思われる)
24.7×18.5 cm(西澤先生の旧制2中時代の多くの絵は37.6×28.5 cm程度である。)
渡辺寧先生に半導体の研究を命じられたのは昭和24年3月か4月のようである。いつの時点からか不明であるが、その後、渡辺寧先生はノーベル賞選考委員になられている。
図1の絵は、渡辺寧先生に半導体の研究を命じられた後、数ヶ月を経過した頃の大学院特別研究生の時期に描かれた水彩画と思われる。昭和24年9月以降は、§7で述べるように、すべてのエネルギーを半導体の研究に集中され、絵を描くのをやめられたようである。
大学の研究室に寝泊まりして研究されていたようである。「歯医者に行っても渡辺先生に叱られた」という話を聞いたことがある。
当時全く未知の領域であった半導体の分野の研究を開始後、たった1年でp-i-nダイオード(特許第205068号)やイオン注入法(特許第229685号)等のノーベル賞級の発明をされていることは驚異である。大学院の学生が、僅か1年で欧米の権威の学説を否定し、半導体のp-n接合の理論に関しては、世界の最高峰に位置する研究者になってしまった。
西澤先生は「定年退職したら、また絵を描きたい」と言われていたが、定年の年齢以降も東北大学第17代総長、岩手県立大学初代学長、首都大学東京初代学長等の要職を務められることになり、更に予算20億円、80億円の国家プロジェクト等の総括責任者も務められることになられたので、絵を描く時間が与えられなかった。誠に残念である。
天は絵を描く時間を与えなかったが、西澤先生は研究の合間に絵画を鑑賞することは続けられていた。2007年のNHK日曜美術館では、「学者であり続けることの原動力は、86歳の死の寸前まで光と格闘し続けたモネの絵を見ることだ」と言われていた。
今回の目次:
§1 すべての分野でオールマイティであれ
§2 工学と非言語的な学習とのシナジー
§3 木の中に埋まっている仁王像を掘り出す
§4 仁王像は構えのある心が掘り出す
§5 広い視野に対する集中力が「構えのある心」を生む
§6 絵画に向けられた広い視野に対する集中力
§7 欧米の権威に立ち向かった苦悩
§1 すべての分野でオールマイティであれ
西澤先生は「どんな分野であろうと、1年間必死に勉強すれば専門家になれる」とご指導されていた。「まずは一芸に秀でなさい」と指導されたが、その一方で、「すべての分野でオールマイティであれ」という言葉をかけられた弟子もいる。
レオナルド・ダビンチ (Leonardo da Vinci)は、幼少期に始めた絵画等の芸術分野の他、兵器、ヘリコプター、建築等の発明、解剖学や天文学等様々な分野に顕著な業績を残している万能人である。
【図2】万能人フォン・ノイマンが否定した半導体レーザを西澤先生が特許出願
18世紀の万能人として平賀源内が上げられよう。本草学者、地質学者、蘭学者、医者や発明家等の科学技術の分野の他、戯作者、浄瑠璃作者、俳人、蘭画家等の芸術分野の業績を上げている。
産業革命以降の19世紀~20世紀にかけて、科学技術分野の専門化は急速に進むこととなる。このため、20世紀においては万能人の出現は困難になってくるが、20世紀の万能人としては、ニコラ・テスラ(Nikola Tesla)やバックミンスター・フラー(Buckminster Fuller)が挙げられるかも知れない。
テスラは、交流電気方式、無線操縦、蛍光灯等の発明等の科学技術の分野の他、詩作、音楽等の芸術分野の業績を上げている。フラーは構造家、建築家、発明家等としての科学技術の分野の他、デザイナー、詩人等の芸術分野の業績を上げている。しかし、テスラやフラーが絵画を描いていたか否かは不明である。
ジョン・フォン・ノイマン(John von Neumann)は、数学・物理学・工学・計算機科学・経済学・気象学・心理学・政治学の分野で業績を残しているが、芸術分野の業績は不明である。ノイマンは西澤先生のレーザの提案より早い1953年9月に半導体pn接合で光の増幅は可能であろうと非公式に語ったとされている。
ノイマンの語った相手は、水爆の父と言われるエワード・テラー(Edward Teller)やトランジスタの発見者ジョン・バーディーン (John Bardeen)である。しかし、ノイマンは、半導体pn接合は、光の増幅はできても、荷電キャリアの吸収によるフォトンの損失があるので、レーザは実現できないだろうと予言している。
ノイマンが実現不可能であろうと予言した半導体pn接合によるレーザの特許出願を、西澤先生は1957年4月にされている。図2に示すように、西澤先生の半導体レーザの特許出願は、1964年にノーベル物理学賞を受賞したC.H. タウンズ(Townes)によるレーザの特許出願よりも早い1957年4月22日である。
西澤先生の半導体レーザの特許出願は、1960年9月20日に特公昭35-13787として公告され、特許第2732178号として登録された。
§2 工学と非言語的な学習とのシナジー
西澤先生は、「半導体集積回路とは、すべての技術の集積である」と言われていた。そして、半導体工学だけでなく、化学や機械工学の博士号も弟子の中から誕生させる予定であると言われていた。
レオナルド・ダビンチは数学や幾何学を機軸に、建築、解剖学、生理学、動植物学、天文学、気象学、地質学、地理学、物理学、光学、力学、土木工学等の異なる分野研究しているは、これはシステム思考による異なる分野のシナジー効果を用いていたと考えられる。
西澤先生も化学や機械工学を含む広い分野の研究をされた。液体中の電気伝導の研究は化学の分野に属するものであるが、半導体中の電気伝導と関係がある。西澤先生がされた光化学や光触媒の研究は、半導体の結晶成長に重要な研究であり、相互に連関する。
機械工学の分野の研究としての、西澤先生の精密位置制御の研究は、半導体集積回路の微細なパターンを描画するパターンジェネレータの研究である。晩年はDNAの制御や癌の治療に関する研究もされていたが、これは、ラマンレーザという半導体装置による光と電波の谷間の電磁波(テラヘルツ波)の応用研究である。
科学技術分野の専門化が進んだ20世紀において、このような広範囲で研究成果をあげられていた西澤先生は、希有な存在である。
しかしながら、広範囲であっても、すべて、西澤先生の機軸とされていた半導体装置の研究と相互に連関するシナジー効果のある研究である。このように西澤先生は事業における関連型多角化戦略と同様なシナジー効果のある効率良い工学の研究をされていたのである。
さて、工学と芸術、特に絵画とはどのような関連があるのであろうか。
E.S.ファーガソン(Ferguson)は、「ここ500年間の工学は、非言語的な学習と非言語的な知識に大幅に依拠してきた」と述べている(E.S.ファーガソン「技術屋の心眼」平凡社)ので、工学と絵画のような非言語的な学習や知識との関連性は推定できよう。
アルベルト・アインシュタイン(Albert Einstein)は、「私は数学的な法則を使う代わりに、主に視覚的なイメージや感情で物事を考えている」と言ったとされる(ウィン・ウェンガー他著, 田中 孝顕(訳)『アインシュタイン・ファクター』きこ書房)。物理学においても、視覚的なイメージや感情が重要であることが分かる。物理学と、絵画のような視覚的なイメージや感情との関連性は推定できる。
このように、工学や物理学と絵画のような非言語手的なイメージとの間に、何らかの共通性はあるのであろう。
語源的には英語のartは、単に「人工(のもの)」という意味で、医術、土木工学等の広い分野を含む概念で、現在の「技術」である。現在の「芸術」は、近代以前には、「よい技術、美しい技術」(beaux arts)と呼ばれ、技術とは区別されていた。「芸術」は、「art」の一部を占めるに過ぎない第二義的なものであった。
「芸術」という語は、西周によってリベラルアーツ(liberal art)の訳語として用いられたことに由来するらしい。明治3年に西周が、「術にまた二つの区別あり。mechanical art and liberal art」と説明し、「mechanical artを直訳すると器械の術となるが適当でないので技術と訳して可である」と、私塾育英舎にて講義している(百學連環)。
リベラルアーツは、本来は、古代ギリシャの自由4科に対し、ローマ時代になって、文法学、修辞学、論理学(弁証法)の3学芸を付加したものである。古代ギリシャの自由4科は、代数(算術)、幾何、天文学、音楽である。教育を受けていないが、レオナルド・ダビンチ は古代ギリシャの自由4科のすべてにおいて卓越していたのである。
以下においては、芸術面における鑑賞眼と科学技術における観察眼の曖昧さの意味を検討してみる。そして、なぜ西澤先生が、ノーベル賞級の発明と卓越した絵画の両方を創造することができたのかを考えてみる。
§3 木の中に埋まっている仁王像を掘り出す
ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel)は、「小論理学」第2部本質論において、『学問および哲学の任務が、偶然の仮象のもとにかくされている必然を認識することにあるというのは、全く正しいものである』と述べている(ヘーゲル著、松村一人訳、『小論理学下巻』、岩波書店、p92)。
一方、生前フィラデルフィア美術館等の文化施設に足繁く通っていたとされる米国の社会学者ロバート・キング・マートン(Robert King Merton)は、すべての発見は原理的に多重発見(multiples) であるという仮説を提案している。
そして、マートンは、「創造的な発見は必然的に起ころうとしていることを最初に見い出したに過ぎず、個人的な天才の能力は社会学的な意味の科学の進歩とは無関係である」と述べている(Robert K. Merton, "The Role of Genius in Scientific Advance", New Scientist, Vol.259, p306-308, (1961))
さて、夏目漱石の『夢十夜』の第六夜に以下のような記載がある:
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
運慶が護国寺の山門で仁王を刻んでいると云う評判だから………………
…………(中略)………。
………。するとさっきの若い男が、「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋まっているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだからけっして間違うはずはない」と云った。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
『夢十夜』の「さっきの若い男」は、運慶の技術が高いのではなく、運慶が木の中に埋まっている仁王像を掘り出しているに過ぎないとしている。
明治時代初期の彫刻家の平櫛田中(ひらくしでんちゅう)氏(1872-1979)も同じようなことを述べているが、英国の天体物理学者アーサー・スタンレー・エディントン(Arthur Stanley Eddington)も、物理学者は大理石の中に埋まっている半身像を掘り出しているに過ぎないと述べている。
エディントンは、太陽の重力場によって光線が曲げられることを観測して、アインシュタインの一般相対性理論の予測を裏付けた天文学者として有名である。エディントンはその著『物理学の哲学』で以下のように記載している:
『人間の頭の形式が荒削りの一塊の大理石の中に存するという空想的理論を述べる或る芸術家を考えよう。…(中略)…。芸術家の手続は何等か本質的に物理学者の手続と異なるものであろうか。…(中略)…。恰も彫刻家が荒削りの一塊の大理石を一個の半身像と一群の破片に分離せしめる如くに、物理学者は…(エディントン、『物理学の哲学』創元社、p156-157原書は1939年刊)。』
エディントンは、物理学の研究業績は物理学者の才によるものではなく、もともと大理石の中に最初からあったものを掘り出しているに過ぎないと述べているのであるが、エディントンのこの考え方のルーツは、15世紀のイタリアの彫刻家ミケランジェロ・ブオナローティ(Michelangelo Buonarroti : 1475-1564)にまで遡りそうである。ミケランジェロは以下のように述べたとされている:
『 わたしは大理石を彫刻する時、着想を持たない。「石」自体がすでに掘るべき形の限界を定めているからだ。わたしの手はその形を石の中から取り出してやるだけなのだ』
“Ogni blocco di pietra ha una statua dentro di se ed e compito dello scultore scoprirla (Every block of stone has a statue inside it and it is the task of the sculptor to discover it.)”
ここで注意したいのは、物理学者のエディントンと、芸術家のミケランジェロや平櫛田中氏に「かくされている必然」としての「仁王像」が、共通して存在することである。
夏目漱石の『夢十夜』の自分は、急に仁王が彫ってみたくなって、見物をやめてさっそく家へ帰った。『夢十夜』の第六話の最後は、以下のような記載で終わっている:
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
自分は一番大きいのを選んで、勢いよく彫始めて見たが、不幸にして、仁王は見当らなかった。その次のにも運悪く掘り当てる事ができなかった。三番目のにも仁王はいなかった。自分は積んである薪を片っ端から彫って見たが、どれもこれも仁王を蔵しているのはなかった。ついに明治の木にはとうてい仁王は埋っていないものだと悟った。それで運慶が今日まで生きている理由もほぼ解った。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
夏目漱石の『夢十夜』の「自分」と運慶の違いは、かくされている「仁王像」を識別できる注意力の差異であろう。
§4 仁王像は構えのある心が掘り出す
京都大学名誉教授佐々木申二先生は、1944年の日本学士院賞受賞(化学反応の微細機構に関する研究)記念講演で、「松茸は摘み取られるまでに千人の股をくぐる」と言われた。
1942年の日本学士院賞を受賞された大阪大学の小竹無二雄先生は、佐々木先生の話を、「商売人が松茸山に入ったあとシロウトが探しても、松茸は見つかる」と説明されている。商売人であっても、通常の注意力では、かくされている「仁王像」を識別できないということである。
「セレンディップの3人の王子たち」という童話がある。アラビア語でスリランカを「セレンディップ(Serendip)」というので、この童話は「スリランカの3人の王子たち」という題名になろう。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
昔々、スリランカに3人の王子さまがいました。王様である父上のジアファが、大きくなった3人の息子たちを鍛えるために旅に出しました。国を出発した3人の王子たちはベーラムの国にやってきて、ひとりの男に出会いました。
しかしそのベーラムの男はひどく落ち込んでいたので、3人の王子たちはいったいどうしたのか尋ねました。すると男は、『ラクダがいなくなってしまってさぁ。旦那方、ラクダを見ませんでしたか?困っちまいまして……』と答えました。
3人の王子たちはまるでそのラクダを知っているかのように話し始めました。
『片目が見えないでしょ。』
『歯が一本抜けてるでしょ。』
『足も一本悪くて、引きずって歩くでしょ。』
これがすべて当たっていたので、この旦那たちはきっと私のラクダを盗んだに違いないと思い、ベーラムの男は3人の王子たちを訴えました。捕らえられた王子たちは、ベーラムの皇帝によって死刑宣告を受けてしまいましたが、間もなくしてラクダが見つかり、3人の王子たちの疑いは晴れました。
ベーラムの皇帝は不思議に思って王子たちに『どうして見たこともないラクダのことを知っていたのか?』と聞きました。スリランカの3人の王子たちは以下のように答えたという。
『道端の草が左側だけ食べられていたので、右目は見えないんだなぁ、と推理しただけです。』
『草を噛んだ後を見て、歯が一本ないんだなとわかりました。』
『道に片足を引きずった跡があったので、足が悪いんだなと思いました。』
ベーラムの皇帝は3人の王子たちの話を聞き、その洞察力に驚かされ、しばらく自分のそばにスリランカの3人の王子たちを置いて重用したということです。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
この童話の「ベーラム」という国は、ササン朝ペルシャだと言われている。このペルシャの童話はさまざまな言語に翻訳された。後にイギリスの小説家となるホレス・ウォルポール(Horace Walpole)が子供の頃に、このペルシャの童話を読んでいた。
ホレスは1754年1月8日付けの友人に宛てた手紙で、セレンディピティ(Serendipity)の造語を用いた。ホレスは、初代イギリス首相とされるロバート・ウォルポール(Robert Walpole)の実子である。
科学分野で最初にセレンディピティの語が用いられたのは1945年である。前述した多重発見の提唱者R. K. マートンが社会学の分野に導入したのである (R. K. Merton, “Sociological Theory,” American Journal of Sociology, Vol.50, No.6, (1945), pp,462-473)。
セレンディピティは、「偶然または聡明さによって、予期しない幸運に出会う能力」という意味であるが、フランスのルイ・パスツール(Louis Pasteur)は、1854年のリール大学学長就任演説において、「観察の領域において、偶然は構えのある心にしか恵まれない(Dans les champs de l'observation le hasard ne favorise que les esprits prepares.)。」と述べている。
仁王像は「構えのある心」にしか恵まれないということになるが、どのように心を構えたら、「かくされている仁王像」を発見できるのであろうか。
§5 広い視野に対する集中力が「構えのある心」を生む
西澤先生は心理学者の宮城音弥先生の「天才とは、頭がいいのではなく、異常な集中力にある」を、良く引用されていた(宮城音弥著、『天才(岩波新書)』、岩波書店)。
小さな焦点に対し、短時間で脳のエネルギーを集中させることは凡人でもできるが、長時間集中力を発揮するのは、凡人には困難である。ビルゲイツ(William Henry Gates III)はコロンビア大学の白熱教室で以下のように述べている:
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
全てのサクセスストーリーには、運とタイミングという重要な要素がある。「一つのことに、1万時間を費やせばその分野にずば抜けて強くなる」と言う人もいるがそんなに単純だとは想わない。実際には、50時間を費やした後、90%が脱落する。好きになれない、向いていないというという理由でだ。そして、さらに、50時間費やした人の90%が諦める。このような普遍的なサイクルがあるのだ。運だけでなく、続けるだけの熱意も必要だ。1万時間続けた人は、ただ、1万時間費やした人ではない。自分で選び、さまざまな過程の中で選ばれた人なのだ。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
遺跡の発掘には「手ガリ」と呼ぶ鎌のような工具で、地面を薄く削り取っていく。遺跡によって土の質や色は様々であり、土質や土色、さらには地面を削る感触、削る際の音の違いにも注意しながら注意深く、時間をかけてゆっくり地面を削る必要がある。
丸太の中の仁王像を探すのも、少しずつ注意深く、時間をかけて行う必要がある。一番大きい丸太のどこに仁王像が埋っているのかを見つけるには、長時間にわたり、広い視野で丸太の全体を注視する集中力が必要である。広い視野に対する集中力を長時間発揮することには、膨大なエネルギーを要することになる。
西澤先生は「自分の頭の中にジャングルジムを構築しなさい」と、指導された。単に記憶した情報量を増やすだけではだめで、自分の頭の中に構築した多次元のジャングルジムの論理体系において、どのような視座、視点、目の方向から見ても論理的に矛盾のない思考をしなさいということである。
パスツールの「構えのある心」とは、ジャングルジムが構築された論理体系の中で、全体的な関連性や、つなぎ合わせる思考が可能な、広い視野をミクロなレベルで観ることのできる集中力のある心である。
1950年に出願された特許第205068号が静電誘導トランジスタ(SIT)の基本特許であるが、この基本特許とは別に、1971年4月28日に出願された特許第968336号は、1956年のノーベル物理学賞を受賞したウィリアム・ブラッドフォード・ショックレー(William Bradford Shockley)の電界効果トランジスタ(FET)の動作に関する理論の間違いを西澤先生が指摘したことを端緒とする発明である。
ショックレーが1952年に発表した理論では、FETのドレイン電圧―ドレイン電流が飽和する真空管の5極管型の特性になるのは、ゲート電圧を印加することにより、ドレイン電流が流れるチャネルが空乏層により閉じられるためと説明した(W. Shockley, “A Unipolar ‘Field Effect’ Transistor”, Proc. IRE, Vol40, pp.1365-1377, (1952))。
西澤先生はショックレーの説明の論理的矛盾に気がつかれ、かくされていた仁王像を発見した。チャネルが空乏層により閉じられたら、ドレイン電流は流れなくなるはずである。
そこで1965年になりFETの内部の電位分布を大学院の学生に測定させ、FETのドレイン電圧―ドレイン電流が飽和するのはチャネルが閉じられるためではなく、内部チャネル抵抗の負帰還が飽和特性を生じる原因であると、仁王像の正体を突き止められている。特許第968336号には負帰還の大小で真空管の5極管型の飽和特性にも3極管型の不飽和特性にもなることが記載されている。
SITの発明は、従来のバイポーラトランジスタ(BPT)やFETの長所を兼ね備えるばかりでなく、周波数特性、雑音特性、高出力特性、効率等のあらゆる特性においてBPT、FETを凌ぎ、個別デバイスから集積回路、イメージセンサに及びファミリーデバイス群を形成し、膨大な分野で活用されつつある半導体装置である。
低歪、大電力、低雑音という特性を生かして、SITはオーディオ用のトランジスタとして実用化された。1974年にヤマハよりSITを用いたオーディオ増幅器が発売されたが、西澤先生は自分の発明したトランジスタを搭載したオーディオ増幅器で音楽を聴く、世界でも希な発明者になるのである。
§6 絵画に向けられた広い視野に対する集中力
フランスの画家クロード・モネ(Claude Monet: 1840~1926年)は20世紀を代表する印象派の画家である。パリ市内西部ブローニュの森のほど近くにあるマルモッタン美術館 (Musee Marmottan)に所蔵されている作品の一つが、長年「上下逆さま」で間違った展示がされていたのを、1972年に西澤先生が指摘されている。
図3に示すように、モネの作品は睡蓮と水面に映る草や雲を描いたものだった。
1889年のNHK日曜美術館で、西澤先生は「葉っぱの角度がまず違うんです。幅と横との比率がどうもおかしい。色の濃淡とかもね。 やはり、葉っぱの見る角度が違っているというのが決定的ですね。」と指摘されている。2007年6月10日放送 NHK日曜美術館では「モネの影の描き方から見抜いた」と言われていた。
モネの他の睡蓮作品では手前にある葉は丸くて縦の幅が長いのに対して、奥の葉は楕円形で縦の幅が短い。モネは睡蓮の縦の幅で遠近感を表現していた。注意して観れば、作品が逆さまだと分かるはずであるが、長年逆さまのままだった。
【図3】権威あるアカデミー・フランセズが間違えるはずがないのだが、……?
西澤先生は1971年に作品が逆さまだと思われたが、相手はアカデミー・フランセズだから、専門家が気付かないはずはないと考えられ、その年は、そのまま帰られた。
が、翌年再び訪れると逆さまのままだった。そこで名刺にその旨を書き、受付の女性に渡して帰られた。指摘されたマルモッタン美術館はようやく誤りを認め、ガイドブックの収録分を含めて上下を反転させた。この話はすぐにフランスの新聞『ル・モンド(Le Monde )』が取り上げ、話題となったのである。
レオナルド・ダビンチは、幾何学的な透視図法に「遠くのものは色が変化し、境界がぼやける」という空気遠近法の概念を組み合わせた絵を描いている。西澤先生の逆さまの判断にも数学的な根拠が推定される。西澤先生は数学が得意だった。
西澤先生は著書『独創は闘いにあり』の中で以下のように述べられている(西澤潤一著、『独創は闘いにあり』、プレジデント社、p120):
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
まったく人間の目(鑑賞眼または観察眼)というものは曖昧で頼りないものである。
たとえば私が高比抵抗層(i層)こそ整流特性の特性だと見抜いたとき、目の前にたちはだかったモットやショットキィ、バーディーンの理論の壁にしても、彼らがどこまで実験重視、いや自然現象の本質を見極めるという作業を貫いたのか、いささか疑問に思ったものだ。つまり、私が気づいたことを、なぜ彼らも気づかなかったのか不思議だったからである。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
コロンブスの卵と同じである。逆さまであると言われて注意してみれば、おかしいことに気がつく。権威ある美術館に飾られていれば、専門家であっても見逃してしまうことが多いのである。
マルモッタン美術館という松茸山に何年もの間、専門家が入り続けていたが、気がつかれない松茸があった。それをシロウトの西澤先生が見つけてしまったという事件である。
英国のネヴィル・フランシス・モット(Nevill Francis Mott)、ドイツのヴァルター・ショットキィ(Walter Schottky)、米国のジョン・バーディーン(John Bardeen)には西澤先生の気づいた「かくされていた仁王像」や「かくされていた松茸」が見えなかったのである。
物理学と芸術家の間には、「仁王像」や「松茸」が、「かくされている必然」として共通に存在する。人間の鑑賞眼や観察眼は曖昧で頼りないので、「仁王像」や「松茸」は簡単には見つからないという所以である。
『夢十夜』の第六話の最後は、「それで運慶が今日まで生きている理由もほぼ解った。」で終わっている。
筆者の偏見は、西澤先生こそが「20世紀のレオナルド・ダビンチ」であるとの仮説である。
夏目漱石の観点からは、レオナルド・ダビンチは20世紀まで生きてはいなかったということになろう。ダビンチに対する高評価は現代にまで残っている。しかし、「かくされていた仁王像」を見つける西澤先生が出現したことにより、ダビンチは、運慶のように死ぬに死ねない境遇ではないという意味で。
§7 欧米の権威に立ち向かった苦悩
モットは1977年にノーベル物理学賞を受賞している。ショットキィは、ヨーロッパ大陸北部では最大、且つ最古のロストック(Rostock)大学の教授である。バーディーンは1956年と1972年の2度ノーベル物理学賞を受賞している。ノーベル物理学賞を2度受賞しているのはバーディーンだけである。
即ち、モット、ショットキィ、バーディーンは、いずれも欧米の権威である。
モットとショットキィは、金属と半導体の界面には、界面中間層はなく中間的絶縁層を介した平板コンデンサの考え方を否定していた。バーディーンは、界面中間層はないが表面準位界面準位が存在するという理論であった。
大学院特別研究生前期課程2年の若造である西澤先生は、昭和24年11月の仙台での電気三学会連合大会で界面中間層の高比抵抗層(中間的絶縁層)の存在こそ整流特性の正体なりという論文を発表されている(渡邉寧、中野朝安、西澤潤一著、「結晶整流器に関する研究(第一報)」、電気三学会連合大会、1949年11月)。
図1に示した絵を描かれた2月後である。
この学会で、西澤先生は、多数の先輩や偉い学者先生から「東北の若造が、なにをいうか」「日本の、それも田舎の一研究者がモット・ショットキィの理論にケチをつけるとは、かたはら痛い」と、総攻撃を受けられる。
その翌年10月に投稿した西澤先生の論文の参考文献の覧に、「結晶整流器に関する研究第一報」電気学会寄稿中の記載がある。「電気学会寄稿中」と付記された論文は、仙台での電気三学会連合大会で発表した「結晶整流器に関する研究(第一報)」を基礎に電気学会誌に投稿したものと思われる。
モット・ショットキィの整流理論が間違っているということを電気学会が認めなかったのである。結局、「結晶整流器に関する研究第一報」は握りつぶされて、その後、発表されるまでに至ってはいないと思われる。西澤先生は「それでもモット・ショットキィは間違っている」と、叫びたかったと書かれている(西澤潤一著、『独創は闘いにあり』、プレジデント社、p87-90)。
ガリレオ・ガリレイ(Galileo Galilei)は、1633年の裁判で有罪が告げられたとき、「それでも地球は回っている」とつぶやいたとされる。その百年以上前のレオナルドダビンチのレスター手稿(Codex Leicester)には、月と太陽と地球上の観察者の位置関係が示された図面があり、「太陽は動かない」と、ダビンチの地動説が述べられている。
「それでも地球は回っている」と言ったのはダビンチということになるのだろうか。西澤先生を20世紀のダビンチとする所以の一つである。
その後の多くの学会発表で、西澤先生は先輩研究者から総攻撃を受け続け、苦悩の時代が始まる。その中で、西澤先生は「高比抵抗層の存在こそ整流特性の正体」という思想を発展させて、pinダイオードの製造法の特許出願(特願昭25-11976)を1950年9月11日に、「pinダイオード」の特許出願(特願昭25-16270)を1950年12月20日にされる。
特願昭25-11976の明細書にはpinダイオードの構造も記載されており、特願昭25-11976は、米国GE社の出願より僅か18日早いpinダイオードの特許出願である。
しかしながら、外部からの西澤先生への評価が厳しい状況は続き、1951年頃になり渡辺先生は見かねて、西澤先生の論文を自分の机の上に積み、発表を許さなくなる。論文発表を許されない状況の中、西澤先生の出願した特願昭25-16270は1953年11月25日に特公昭28-6077として公告され、特許第205068号として登録されることになる。
絵を描くのをやめてしまわれたのは、このような論文発表を許されなくなった四面楚歌の状況の苦悩が原因かも知れない。西澤先生は当時、自分の家の布団に寝るのは土曜日の夜だけという生活をされていたようである(渋谷寿著、『闘う独創の雄 西澤潤一』、オーム社、p36)。
西澤先生の出願した特願昭25-11976は1955年12月22日に特公昭30-9364として公告され、特許第221695号として登録された「半導体素子の表面処理の方法」の特許となる。特願昭25-11976の分割出願は1956年8月21日に特公昭31-7133として公告され、特許第229685号として登録される。特許第229685号は「イオン注入法」でpinダイオードを製造する特許である。
1949年当時の技術では、金属と半導体の界面には、必ず自然酸化膜等の中間的絶縁層が存在し、西澤先生の実験結果が正しかったはずである。
特許第205068号にもフォトダイオードの記載があるが、西澤先生が一番苦しんでおられた頃の1953年6月30日には、pinフォトダイオードの特許出願もされている。pinフォトダイオードの特許出願は1955年12月9日に特公昭30-89697として公告され、特許第221218号として登録されることになる。
冒頭で述べた半導体レーザの特許第273217号は、光通信の光源であるが、特許第205068号及び特許第221218号に記載のpinフォトダイオードは光通信の受信装置である。
特許第205068号は、現在の高周波バイポーラトランジスタの約8割が実施しているpnip型バイポーラトランジスタをも権利範囲に含む。当時、この特許第205068号の実施契約に応じたのは、米国のヒューレット・パッカード(Hewlett-Packard )社のみであり、日本の産業界からこの特許に対する対価の支払いはなかった。
ヒューレット・パッカード社は1985年に米国がプロパテント政策に転じたヤングレポートで有名なJ.A.ヤング(Young)が率いる会社である。「プロパテント」とは特許こそが国家にとって重要であるという考え方である。
自然現象を正確に見極めることが重要であるのは、絵画でも自然科学系の研究でも同じである。
【図4】権威者の論文ではなく、自然現象を正確に見極めることが重要
今回紹介した西澤先生の水彩画は、生涯絵を描き続けたレオナルド・ダビンチとは、絵の技量において差異があるであろう。しかし、専門化の進んだ20世紀においてでさえも、何事に対してもオールマイティであることを志向された西澤先生の思想は、ダビンチに匹敵するであろう。
講演会の会場のごく小さな光の漏れを会場の後の方で見つけて、「カーテンを直せ」と会場係に指示するような、通常人が見過ごすミクロな細部に気がつく観察力が、西澤先生の独創性の根底にあるのであろう。
あるとき、交差点で多数の人が待っているとき、真っ先に近づき、目の不自由な方を導かれたのが西澤先生であった。西澤先生の絵には、繊細さと共に優しさや、暖かさがある。
弁理士鈴木壯兵衞(工学博士 IEEE Life member)でした。
そうべえ国際特許事務所は、「独創とは蓋然の先見」という創作活動のご相談にも積極的にお手伝いします。
http://www.soh-vehe.jp