第10回 発明は天才のひらめきによるものではない
NHKの2019年大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」の足袋職人役の俳優に問題が発覚し、代役が起用されるようである。今成知美氏らを発起人として2016年に設立された「依存症問題の正しい報道を求めるネットワーク」は、俳優の薬物問題に対して過度な自粛をやめるよう求める文書をNHKに提出したという。
「いだてん」のなかで、日本のマラソンの歴史に重要な意味をもつ「カナグリシューズ」の開発の経緯がどのように紹介されるのであろうか。この「カナグリシューズ」の原点は地下足袋であるが、この地下足袋はいったい誰が発明したのであろうか?
すでにこのコラムの第36回で「卓球もイノベーションで進歩しています」と述べた。
https://mbp-japan.com/aomori/soh-vehe/column/201123/
フルマラソンの記録の向上の背景には靴の改良等のイノベーションも寄与しているはずである。ちなみに筆者の42.195kmの自己ベストは42歳のときの2時間53分01秒(1992年第1回さいたまマラソン)である。
筆者の自己ベストは1896年アテネ大会でのスピリドン・ルイスの2時間58分50秒(36.75km)、1900年パリ大会でのミシェル・テアトの2時間59分45秒(40.26km)、1904年セントルイス大会でのトーマス・ヒックスの3時間28分53秒(39.9km)、1908年ロンドン大会でのジョニー・ヘイズの2時間55分18秒(42.195km)という、4大会のそれぞれの金メダルの記録よりも速い。
市民ランナーとして「サブスリー」で走ったことのある筆者は、今後の「いだてん」の展開を楽しみにしている。
§1 明治時代の三大発明の地下足袋とは何か
§2 大正11年の石橋の考案は大正7年の矢部の考案を使用
§3 大正8年に金栗がゴム底の地下足袋で1200km走破
§4 明治38年に、ゴム液を地下足袋の底に塗布する実用新案が
§1 明治時代の三大発明の地下足袋とは何か
「明治時代の三大発明」として、西尾正左衛門の「亀の子タワシ(実用新案第8144号:明治41年出願)」、池田菊苗の「味の素(特許第14805号:明治41年出願)」と、ともに「地下足袋」が挙げられる場合がある。
http://shokubun.la.coocan.jp/instantmen.html
西尾正左衛門は、実用新案第8144号の存続期間(当時の存続期間は6年)満了前の大正2年に特許出願して、特許第27983も取得し、通算で21年間の独占期間を取得している。このような実用新案と特許の重複出願が可能であったのは、当時の特許法が先発明主義で、実用新案が先願主義であったためと解釈される。
さて、明治時代の三大発明の「地下足袋」に、「志まや(1892年創業)」の二代目石橋徳次郎が考案した「ゴム(護謨)底地下足袋(実用新案登録第80594号:実公大12-010832)」が挙げられることがあるが、実用新案登録第80594号は、大正11年の出願であるので、明治時代の三大発明としては適切ではない。
実用新案登録第80594号の出願前の大正7年(1918年)に、二代目石橋徳次郎(幼名は重太郎)を社長、弟の正二郎を専務取締役として、日本足袋株式会社を設立し、 つちや足袋(1873年創業)、福助足袋(1882年創業)とともに足袋の三大メーカの一つとなる。その後、徳次郎の弟の正二郎が1931年(昭和6年)に ブリヂストンタイヤ株式会社を設立している。
実用新案登録第80594号を基礎として、存続期間満了後含め、日本足袋株式会社は10年間で2億足のゴム底地下足袋を売ったという。
【図1】実用新案登録第80594号に記載された地下足袋の構造[ 出典:J-PlatPat]
実用新案登録第80594号の明細書によれば、「実用新案の性質、作用及び効果の要領」の欄において、図1を以下のように説明している:
『本案はゴム底地下足袋の改良にして、従来普通のゴム底地下足袋は甲布と雲斎底又は石底等の足袋底とを縫合し一旦完全なる足袋に製作したるものに、更に適当なるゴム底を縫着して成るものなるも、本案に於ては甲布のみを普通の如く製作し、雲斎底等の布製足袋底を縫合することなく、甲布(A)の下端を屈曲して、ゴム製内底(B)に貼着して、之に補強及び防水の用をなす爪先ゴム片(C)、踵部ゴム片(D)及び甲布の下端周囲に続せる帯状ゴム片(E)を貼着し、次いで甲布の下端及び爪先ゴム片、踵部ゴム片、帯状ゴム片等の下端をゴム内底と外側ゴム底との間に挟みて外側ゴム底(F)を貼着し、底部装置を縫合によらずゴム貼着により結合したる構造を要部とし、底部ゴム質の部分は凡て生ゴムの間にゴム液を以って貼着することにより整形し乾燥釜に収め、加熱乾燥せしめて成るものとす。(G)は内底の上面に貼着せる適宜の布片なり。』
実用新案登録第80594号の明細書に記載された「雲斎底」とは、備前・美作(みまさか)津山(現在の岡山県津山市)の雲斎が、江戸時代中期頃に創始したという厚手の綾(あや)織である「雲斎織」による綿織物の足袋底である。
雲斎織に対して、「杉綾底」は生地の織り目がM型若しくはW型に見える厚手の綾織がある。雲斎織は、杉綾底の綾織よりも太い糸で織られており、生地の織り目が斜めに線が入っている模様に見えるのが特徴である。雲斎織が有名になったのは江戸時代末期である。
又、実用新案登録第80594号の明細書に記載された「石底」とは、経(縦糸)と緯(横糸)が共に太い綿糸を密に織った「石底織り」による厚地の堅牢な布を意味する。
§2 大正11年の石橋の考案は大正7年の矢部の考案を使用
しかし、地下足袋の底にゴムを貼る技術的思想は、二代目石橋徳次郎の考案が最初ではない。実用新案登録第80594号の後段には以下のような記載がある:
『本案は登録実用新案第52481号の考案を改良し、其の底部の構造を綿布を以て普通の 足袋に於ける如く構成せる普通の足袋甲布に応用したるものにして、登録実用新案第52481号に在りては、ゴム膜を貼り込みたる防水布を甲布となす稍々硬直に失し、使用に際し足袋と密接なる接触を欠き、地下足袋として幾分の欠点あるも、本案に於ては甲布に普通の地下足袋と同様のものを使用し、以て斯くのごとき弊害なからしめ、又其の下部周囲爪先部及踵部に別に補強及び防水の用をなすゴム片を貼着し、地下足袋として一層一般的使用に好適せしめるものなり。
考察相互の関係: 本案は実用新案第52481号の権利を使用したるものなり。』
【図2】実用新案第80594号は実用新案登録第52481号の権利を利用(使用)
図2に示すように、既に大正8年4月14日に矢部音吉と山内季蔵の2名を考案者とするゴム底の地下足袋の実用新案登録が出願され、大正9年5月31日に登録実用新案第52481号として登録されていたのである。
実用新案登録第80594号の後段に記載の「使用」は、現在の特許法第72条及び実用新案法第17条等に規定されている「利用」の意味であろう。
現在の特許法第72条に対応する規定は大正10年法(大正11年1月11日施行)の第35条第3項に登場するが、それ以前の明治42年法には「利用」「抵触」の規定はない。施行後まもない「利用」という概念に石橋徳次郎は、まだ馴染んでいなかったのであろうか。
石橋徳次郎の実用新案登録出願は、大正11年8月10日であるので、登録実用新案第52481号と登録実用新案第80594号とは「先願」と「後願」の関係にある。「本案は実用新案第52481号の権利を使用したるものなり」と、明細書中に明示されているとおり、石橋徳次郎の実用新案は先願の実用新案第52481号を改良したものに過ぎないと、石橋徳次郎自身が認めているのである。
即ち、後願の登録実用新案第80594号では、甲布に普通の地下足袋と同様のものを使用して底部のみにゴムを用いた点が、登録実用新案第52481号と異なるのであり、地下足袋の底にゴムを貼るという技術的思想は新しいものではない。
§3 大正8年に金栗がゴム底の地下足袋で1200km走破
図2に示した矢部音吉らがゴム製地下足袋の実用新案登録出願をした3月後の大正8年7月に、金栗四三は、播磨屋の黒坂辛作が改良したゴム底の地下足袋を用いて、下関-東京間1200kmを20日間で走り抜くウルトラマラソンを実施している。
明治45年(1912年)のストックホルムオリンピックにおいて、足袋職人の黒坂辛作が厚手の3枚布で補強した地下足袋は、ストックホルムの石畳からの衝撃を吸収しきれずレース中に膝を痛めたという。
金栗四三は、「世界の舞台でも通用するマラソン足袋が必要だ」と考え、黒坂辛作と改良を続け、1200km走破可能な地下足袋を、8年かけて完成していたのである。この金栗足袋(ハリマヤ足袋)の完成も、石橋徳次郎の実用新案登録の出願日の大正11年8月より早い。金栗四三は、ストックホルムでゴム底のシューズを見て帰ってきていた。
金栗四三の1200kmウルトラマラソンの成功を新聞社が報じた後、石橋徳次郎が登録実用新案第80594号を出願するまでの間に、他の考案者から出願され、地下足袋の考案として登録された登録実用新案権が、なんと約60件も存在する。
石橋徳次郎の出願の2年前の大正9年頃には既に「大阪ゴム底足袋株式会社」というゴム底地下足袋の会社も存在していた(登録実用新案第60380号、60387号)。
金栗足袋のコハゼを取り外したのが、冒頭で言及した「カナグリシューズ」であるが、「カナグリシューズ」の誕生は戦後である。地下足袋に原点を有する「カナグリシューズ」は、つま先から踵にかけての外側の曲線の膨らみが大きく、日本人の足の形に適しているということである。
ベルリンオリンピックで孫 基禎(そん きてい)が「カナグリシューズ」を履いてマラソンで金メダルを獲得した1936年の新聞記事では、黒坂辛作は17年前の大正8年(1919年)に実用新案権を取得したと述べている(筆者は対応する実用新案権をまだ確認出来ていない。)。
播磨屋は当時、小石川区大塚仲町10番地にあったが、その住所に近い小石川区戸崎町88番地に住んでいた濱田勝蔵が、大正8年5月~大正9年12月にかけて多数の濱田式ゴム底地下足袋の実用新案登録出願をして権利化している(実用新案登録第48745号、51479号、55460号、57047号、57048号、58248号)。
図3に示すように、黒坂辛作の長男は母方の養子になって與田勝蔵を名乗っていた。ひょっとすると、濱田式ゴム底地下足袋の濱田勝蔵と2代目播磨屋社長の與田勝蔵は、同一人物かもしれないが、今のところ不明である。
【図3】 播磨屋2代目-3代目の系譜
§4 明治38年に、ゴム液を地下足袋の底に塗布する実用新案が
実は、島田直臣が明治38年(1905年)8月30日に底にゴム液を塗布して地下足袋の耐久性を上げる「跣足袋底」の実用新案登録出願をし、登録実用新案第473号として権利化している。多分、この登録実用新案第473号が日本で最初の地下足袋の登録実用新案権であろう。
【図4】実用新案第473号の内容[ 出典:J-PlatPat]
図4の符号イはゴム液を塗布したズックの小片を縫い付けた箇所で、符号ロはズックの表面にゴム液を塗布した足袋底である。そもそも、ゴム底の地下足袋は、明治35年(1902年)頃から阪神や岡山県などで生産されていた。しかし、ゴム底縫付け技術に問題があり、耐久力が無いという欠点が解決できないでいたようである。
又、明治40年1月22日には城倉房太郎が皮底の地下足袋の実用新案登録出願をし(登録実用新案第6320号)、明治41年7月28日には高田鐘之助も皮底の地下足袋の実用新案登録出願(登録実用新案第111560号)をして権利化しており、その他多数の足袋の底の耐久性を向上させるための改良がなされている。
皮製の足袋は、山や野での作業をする人々が足を保護するために用いたのが起源で、平安時代末期や鎌倉、室町時代において、武士や農民が使っていたようである。ただし、江戸時代に足袋用の皮が足りなくなり、綿の足袋が主流になった経緯があるようである。
明治39年2月出願の登録実用新案第2235号において初めて「地下足袋」の名称が出てくる。しかし、明治39年10月出願の登録実用新案第4371号には「明治直足袋」とあり、明治40年9月出願の登録実用新案第7525号にも「直穿足袋」とあり、明治41年11月出願の登録実用新案第11529号にも「直穿足袋用ゴム底片」とあるので、「地下足袋」の名称が定着するのはかなり時間が必要であったようである。
実用新案第11529号には、図5に示すように、凸凹構造のゴム底の形状が示されている。
【図5】実用新案第11529号に記載された凸凹構造のゴム底の形状[ 出典:J-PlatPat]
前回のコラムでインスタントラーメンの真の発明者は誰かという問題を考えた。真の地下足袋の発明者(考案者)を決めるのも難しい。
既に平安時代に地下足袋は存在したという解釈も可能であろうし、明治38年の島田直臣を考案者(発明者)とすることも可能であろう。明治38年の最初の地下足袋の出願以降、大正元年までの間に、出願された地下足袋の登録実用新案権が約80件も存在する。よって、「明治時代の三大発明」の地下足袋を発明(考案)した人は、誰か?ということになろう。
このコラムの第5回、第10回、第33回等で説明したとおり、エジソン(Thomas Alva Edison)は、白熱電球の25番目の発明者である。発明とは、たった一人の天才によって達成されるのではなく、種々の技術の積み重ねによって達成されるのである。
エジソンより先に白熱電球を発明した英国のスワン(Joseph Wilson Swan)は、スワンの発明を侵害しているとして、1882年にエジソンを相手に訴訟を起こした。エジソンはスワンの主張に十分な反論できず和解し、1883年にスワンを買収しエジソン・スワン電灯会社(the Edison & Swan United Electric Light Company)を設立している。
第51回では安東百福が競合する特許を買収してインスタントラーメンの事業に成功したことを説明した。地下足袋の場合は、石橋兄弟が競合する実用新案権をすべて買収して独占的に販売する事業に成功している。
資本力(財務資源)を武器に事業化に成功してこそ真の発明者や考案者たるとすれば、インスタントラーメンの発明者は安東百福であり、地下足袋の考案者は石橋徳次郎ということになる。
後の世において、発明者や考案者として認定されるためには、誰が最初に出願したのかという事実ではなく、それを事業として成功させるための資本力や経営力の寄与が、大きく影響していることになる。
辨理士・技術コンサルタント(工学博士 IEEE Life member)鈴木壯兵衞でした。
元「サブスリー・ランナー」鈴木壯兵衞を所長とするそうべえ国際特許事務所は、種々の創作活動のご相談に対応し、創作活動を基軸とした事業活動を積極的にお手伝いします。
http://www.soh-vehe.jp