2016年8月9日に
8月6日、15日につづき、終戦(敗戦)81年前を迎えた今日8月15日のブログを、言問学舎ホームページから常体のまま転載させていただきます。
本題の前に、ふるい拙歌をご紹介することをおゆるしいただきたい。
黙禱の母と二人の部屋にゐて仰ぐほかなき正午のひかり 『奇魂・碧魂』小田原漂情
30年と少し前、おそらく31歳の時の作である。8月15日の正午、全国戦没者追悼式を母と二人で見ていた。首相は村山富市氏だったろうか。30歳を過ぎていたから、その折のことを短歌に書きはしたが、自分自身がまだ広島平和記念資料館と長崎原爆資料館の双方を訪問しておらず(広島へは前々年に行っていたはずである)、形だけ黙禱をすることが憚られ、窓外の天を仰ぐだけだった。
その後32歳の年に長崎原爆資料館や平和祈念像、如己堂などに手を合わせたので、それから15日に慰霊式を視聴できる時は、ずっと黙禱することをならいとしている。今年も同様であったが、今日は陛下のお言葉のうち「過去を顧み、深い反省の上に立って」に先立って、「戦中・戦後の苦難を今後とも語り継ぎ」という箇所が、とりわけ強く印象に残った。
昨日、ネットニュースで拝見したのだが、さる8月8日に、『ガラスのうさぎ』をお書きになった高木敏子さんが亡くなられたという。『ガラスのうさぎ』については、今年の夏は2人の小学4年生が読書感想文の対象として選び、1人はだいたい書き終えた。以前にブログに書かせていただいたこともあるが、この本も、長く子どもたちが読書感想文の対象として選び、学んでいる。
『ガラスのうさぎ』(1977年12月初版発行/金の星社)の主人公である著者の高木敏子さん(作中に登場している年代は江井敏子さん)は、1945(昭和20)年3月10日未明の東京大空襲でお母さんと2人の妹さんをなくされ、さらに8月には、新潟へ引っ越そうとしていた二宮の駅で、米軍機の機銃掃射によりお父さんをも失われた。あまつさえ、当時女学校の1年生(現在の中学1年生と同年齢)だった敏子さんは、医師から死亡診断書を受けとり、一人で役場へ行って火葬許可書と埋葬許可書をもらった上、リヤカーを頼んでお父さんのなきがらを小田原の火葬場まで運んで、お父さんの葬儀を一人で出されたのである。
小学6年生から中学1年生という年齢だった敏子さんは、半年にも満たぬうちに戦争で両親を相次いでなくされ、その後も大変な苦労をなさった。また戦中、小学5年生の時には、スリップの配給がなくなったためお兄さんのランニングシャツを着ることになり、そのままでは恥ずかしいので、胸のところに花の刺繡を自分でして学校に着て行ったところ、担任の先生にひどく怒られ、その場でほどかされたという。その時代のことを『ガラスのうさぎ』ではこう書いている。‐「何事もすべてご無理、ごもっともと、受けいれなければならない時代」。それは、まさに思春期にその時代を生きぬかれた敏子さんご自身の経験であり、後世にそれを伝えるために、ご自身の言葉で記してあるのだ。「あとがき」のお言葉も引用させていただきたい。
「今は、この『ガラスのうさぎ』が一人でも多くの子どもさんたちの手に渡り、私の証言をとおして、戦争の無残さや虚しさを、また生命の尊さを知っていただき、平和を大切にする心を育むことに少しでも役立てばと念じています。」
私もこの『ガラスのうさぎ』をいく度も読み、戦争の無残さや虚しさ、生命の尊さを教えていただいた。また読書感想文以外の授業でも、子どもたちに高木敏子さんの証言を伝えることがある。今日、高木さんが世を去られた今年の8月15日に、改めて高木さんの証言とお心を語り継ぎ、伝えつづけていくことを、誓うものである。
令和8(2026)年8月15日
小田原漂情


