記憶し、伝えつづけることを

小田原漂情

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テーマ:小田原漂情

 8月15日、例年通り書簡を言問学舎ホームページの塾長ブログにつづりました。本日も、常体のまま転送させていただきます。


 今日は午後から夏期講習後半の授業開始なので(私自身の授業は16時20分から)、TV視聴ではあるが、全国戦没者追悼式を見ながら正午の黙禱をし、陛下のお言葉を拝聴してから出社した。8月15日正午過ぎの日射しは強く、暑かった。

 79年前、かの8月15日も、大変暑い日だったと聞く。はからずも今日の午前中に、読売新聞オンラインで今月5日に配信された「[投稿者を訪ねて]戦後79年<上>戦下の劣悪線路 SL乗務…丸山吉治さん 96(群馬県高崎市)」が目にとまり、読んだのだが、その記事中、昭和20(1945)年8月15日に、高崎駅で、一人の機関士が「こんなことになるならやっていられない」と大きな声で叫び、そのまま行方知れずとなってしまった事件があったという。

 推測を交えてすこし説明させていただくと、「こんなこと」とは日本が戦争に負けたことであり、「やっていられない」というのは、記事中にもある通り国鉄も機関士などが多数軍への召集で引き抜かれ、現場に残された人々が埋め合わせで過酷な勤務を強いられたことを思わせる。現に証言をしている、当時機関助士だった丸山さんも、現場が人員不足のため、年少で期待されて採用されたのだという。

 戦時中、勤務状況が厳しいことも、食糧事情が悪く物資が不足していることも、親しい人が軍にとられたり、末期は空襲などで国内の民間人まで多数命を奪われたりしたことでさえ(沖縄では地上の戦闘でも)、「すべては戦争に勝つためだ。やがて神風が吹いて日本は必ず勝つ」と信じ込まされた(あるいはそう考えるよう強制された)のだと言われる。その尺度を百八十度転換させられたのが、79年前のこの8月15日、終戦(敗戦)の日であった。

 「こんなことになるならやっていられない」と叫んで消えた機関士にも、どのような背景があったのだろうか。憶測は避けるが、すべてを捨て去ってもかまわない、そうせざるを得ないほど大きなものを、その瞬間まで犠牲にして来たのだろう。戦火を浴びることなく生きているわれわれは間違いなく幸せだが、止むに止まれぬ叫び声を上げた機関士のような人が数多くいた、そんな時代の激変を知らずに済むのも、また幸せなことである。

 このような事実を語って下さる方々がおられ、伝える営みが機能している、それが当たり前だと思っていてはいけない時が、残念ながら少しずつ近づいている。語り伝えて下さる方々は、それがいま一時のことでなく、ふたたび往時と同じ社会にならぬよう、ずっと伝えつづけることをも、われわれに託しておられるであろう。受けとめるわれわれのありようことが大事である。9日の長崎の平和祈念式典における長崎平和宣言では、が「一人ひとりは微力であっても、無力ではありません」と、長崎市長が「平和をつくる人々」に呼びかけた。

 つねに学び、記憶し、伝えつづけること。改めて心に誓い、できることをつづけるばかりである。
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令和6(2024)年8月15日
小田原漂情

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小田原漂情
専門家

小田原漂情(学習塾塾長)

有限会社 言問学舎

自らが歌人・小説家です。小説、評論、詩歌、文法すべて、生徒が「わかる」指導をします。また「国語の楽しさ」を教えるプロです。みな国語が好きになります。歌集・小説等著書多数、詩の朗読も公開中です!

小田原漂情プロは朝日新聞が厳正なる審査をした登録専門家です

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