研鑽と進化を
10月26日、灰田勝彦先生のご命日にあたり、言問学舎塾長ブログに綴った文章(YouTubeのリンクを含みます)を転載させていただきます。私的な思いを表出した箇所もありますが、何卒ご容赦下さい。
今日10月26日は、灰田勝彦先生のご命日である。10日前、お兄様の有紀彦先生のご命日の時は、今年の10月は晴れの日が少ない、と書いたが、今日は雲ひとつなく晴れ渡り、澄み切った青空のもと、例年通りに、麻布十番にある勝彦先生のお墓にお参りさせていただいた。
灰田勝彦先生がお亡くなりになったのは、昭和57(1982)年のこの日である。当時私は19歳、大学2年生だった。すでに昭和前期の流行歌が大好きだったが、酒の酔いに呑まれ、流されるような生活から、「新雪」など灰田先生の明るく健康的な歌を覚えたいと考えはじめた矢先のことだったのである。
それゆえ、灰田先生がお亡くなりになったことの衝撃は大きかった。すぐにレコードと、当時自宅になかったレコードプレーヤーを買いに行き、一生懸命灰田先生の歌を練習した。「アルプスの牧場」のファルセットは出せるはずもなかったが、メロディーだけでも覚えようと思って練習するうち、どうしてもファルセットで歌いたくなって、2ヶ月あまり来る日も来る日も練習(挑戦)した。そのかいあって、真似事ながら何とか歌えるようになったのである。
それまで自分の力で何かに挑戦し、結果を勝ちとったことがなかった私にとって、毎日ファルセットに挑んで何とかものにすることができた経験は、非常に大きなものだった。のみならず、それから二十代、三十代にかけて友人の結婚披露宴などで「アルプスの牧場」を歌ううち、私は「人間性の明るさ」というかけがえのないものを、灰田先生のおかげで身につけていたことに気づいたのである。
明るさだけではない。灰田先生は、常に正しく、まっすぐに生きる方でいらした。例を挙げると、終戦後ビクターから決まった専属料を受け取らなかった(会社の復興に貢献するため)、野次を飛ばす酔客をステージに引っ張り上げてポカリとやった、楽屋で先輩に挨拶をしない若手の歌い手をしかりつけた、などなど、正義感にあふれたふるまいを数々残されている。また野球のチームでは常にエースで四番であり、「王選手にバッティングの講義をした」という逸話もある。
明るく、正しく生きること。そして人間性の明るさが、私が灰田勝彦先生に与えていただいた大きな大きな財産である。私はまもなく満60歳、還暦を迎えるが、60年の人生の中の40年を、灰田先生のおかげで正しく生きてくることができたのである。その40年分の感謝の思いを、今朝ほどお墓参りにうかがって、ささげて来た。そして40年という大きな節目であるから、今日は「東京の屋根の下」と「水色のスーツケース」の2曲を歌わせていただき、YouTubeにアップした次第である。
https://www.youtube.com/watch?v=_gECj5a34V8&t=10s 東京の屋根の下
https://www.youtube.com/watch?v=5tjRt49n7As&t=276s 水色のスーツケース
今日書いた内容のほとんどは、30年前に出版した拙著『遠い道、竝に灰田先生』に書いてあることでもある。しかし同署の刊行からでさえ30年も経っているし、先生が亡くなられて40年という大きな節目の日であるから、改めて当時のことを書かせていただいた。そして最後にひとこと、この場において、灰田先生への感謝の思いを述べることを、おゆるしいただければ幸いである。
灰田先生、40年間、ほんとうにありがとうございました。
令和4(2022)年10月26日
小田原漂情