2016年8月9日に
(言問学舎塾長ブログを原文としておりますが、当サイトのために文末を書き改めてあります。)
私が常日ごろ、故灰田勝彦先生と故藤山一郎先生に私淑しており、お二方を人生の大恩人と敬愛していることは、毎年10月26日と8月21日のご命日に本コラム(および言問ねこ塾長日記)で申し上げている通りであります。
十代の終わりから二十代、三十代にかけて(1970年代の終わりから1990年代)、私がもっともよく聴き、歌っていたのは、当時「懐メロ」と言われていた、1931(昭和6)年ごろから1950年代の前半あたり(おもに昭和二十年代の後半まで)にかけての、日本の「流行歌」でありました。その時代を代表する大歌手でいらしたのが、藤山一郎先生であり、灰田勝彦先生です。藤山先生は1993(平成5)年8月21日に、灰田先生は1982(昭和57)年10月26日に、お亡くなりになっています。
お二方がなぜ私の人生の大恩人であるのか、またお二方への私の思いということは、これまでも、またこれからも毎年ご命日に述べることでありますので、今日は少し違う観点から、昭和前期の流行歌についての私の考えと、営為とをお話しさせていただきたいと思います。
先述の通り、私は十代の終わりごろから、昭和前期の流行歌を聴き、歌うことに熱中しておりました。灰田先生、藤山先生のほかに好きなのは、伊藤久男さん、津村謙さん、近江俊郎さん、岡本敦郎さん、小畑実さん、竹山逸郎さん、松平晃さん、楠木繁夫さんなど。女性では淡谷のり子さん、松島詩子さん、二葉あき子さん、平野愛子さん、関種子さんといったところです。
評価や歴史的な流れは措くとして、ひとことで言えば、昭和前期の流行歌はみな言葉が美しく(例外として「措いた」部分を除き)、歌唱が正確です。さらに、昭和20年代(終戦の年を除く1946年~1954年)の流行歌の一部には、格調高く、美しい一群の抒情曲が存在しました。こうした歌が、青春期の私の心情にぴったりであったこと、自身のよりどころと感じられたことが、その大きな理由であったと思われます。考えようによっては文学以上にそれらの歌にのめりこんでいた時期があったことを、還暦を目前にした今になって、実感することがあります。
青春期に打ち込んだものをそのまま置き去りにすることなく、形にしておきたいという欲求が心奥にあるのだろうということを、否定するつもりはありません。しかしそれ以上に、往時から私の考えの中に、昭和前期のすばらしい文化を継承し、伝えて行くことを、表現者としての自己の使命、生きる道のひとつと捉えるものがたしかにあったのです。還暦を迎えようとする今、その思いは確実に深くなっております。
東日本大震災で亡くなられた方、被災しておられる方々に届けたいと考えて、灰田勝彦先生の『新雪』を歌い、YouTubeに投稿したのが2011年のことでした。その後2015年から、灰田勝彦先生のご命日などに言問学舎の舎内での簡素な歌と録画ではありますが、昭和前期の流行歌を歌い、伝える活動をつづけています。自分自身が還暦を迎えることと、この活動も十二支のひとめぐりを迎えるため、良い機会と考え、存念を述べさせていただいた次第であります。
この夏は、岡本敦郎さんが歌われた『リラの花咲く頃』(寺尾智沙作詞、田村しげる作曲、1951年)、『高原列車は行く(丘灯至夫作詞、古関裕而作曲、1954年)、『白い花の咲く頃』(寺尾智沙作詞、田村しげる作曲、1950年)を歌わせていただき、YouTubeに投稿させていただきました。今後も、表現者としての私、小田原漂情の生きる道のひとつとして、この営みをつづけて行く所存です。このことは私が提唱し、実践している「真の国語」教育と無縁でなく、ひいては子どもたちにの将来にも資するものだということが、私の信念の一つでもあります。
白い花の咲く頃 小田原漂情唄
高原列車は行く 小田原漂情唄
リラの花咲く頃 小田原漂情唄