三陸の鉄道に捧げる頌(オード)の完結作『志津川の海』を書きました!
今日8月21日は、わたくしの敬愛する藤山一郎先生のご命日です。毎年のことですが、言問学舎塾長ブログの記事を常体のまま転載させていただきます。
今年の7月は、下旬になってからの梅雨明け直前まで、気温も低く、雨模様の日がつづいていた。26年ぶりの冷夏か、などの報道も、目についたものだった。その26年前、1993年の夏を、私は忘れることがない。その年の8月21日に、藤山一郎先生がお亡くなりになったからである。
時代の切り分け方にもよるが、藤山先生は、間違いなく昭和最大の歌い手であった。若い方たちのために顕著な例を挙げると、1992年5月に、国民栄誉賞をお受けになっている。当時スポーツ選手以外で、存命中に国民栄誉賞を受賞した人はなかった(その後も2018年2月の羽生善治氏に至るまで、生前受賞者はスポーツ界の選手、元選手のみである)。
昭和前期のそうそうたる歌い手の方たちが相次いで世を去った1980年代、最高峰の藤山先生はいつもお元気で、NHKの紅白歌合戦では、ラストの『蛍の光』の指揮をなさっていた。それゆえ私は「藤山一郎という太陽が私の上から消えてしまうことはあり得ないという思い」(『わが夢わが歌』所収「そして藤山先生へ」)を抱いていた。しかし避けることのできないお別れの時がついにやって来たのが、1993年8月21日だったのである。
藤山先生は、お亡くなりになる数日前、奥様に「ピアノをダーンとたたいてぴたっと止まるような、そんな死に方をしたい。ぐずぐずするのはいやだ」という意味のことをおっしゃったのだと聞く。そのお言葉通りの、まことにあざやかなご最期だったのだが、私は文字通り太陽を失ったような衝撃と悲しみに暮れ、名古屋から東京目黒区の先生のご自宅まで弔問に伺った。そして今、あの夏のことをふり返るとき、コメの作況指数が74にまで落ち込んだ(平年を100とするもの)記録的な冷夏は、藤山一郎という巨星を送るための異変だったのではないかと思えてならない。
私自身は、今年の8月、6日の広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式からこのかた、今の時代を生きる若者たちのためにこそ、私が学びえたものを伝えて行かなければならないという思いを強くしている。その意味も含めて、今日の昼休みには『青い山脈』を歌わせていただいたが、3番の歌詞の「かがやく嶺の/なつかしさ 見れば涙が/またにじむ」の言葉と、歌っていらした藤山先生のお顔、お声が脳裏に浮かんで、心に迫るものを感じた。藤山一郎先生という大きな明るい山脈が与えて下さったものを、能(あと)う限り伝えて行きたいと願う、この一日である。
令和元年(2019年)8月21日
小田原漂情