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8月15日、本日もまた、言問学舎塾長ブログの記事を常体のまま転載させていただきます。
戦後74年となった今年の全国戦没者追悼式を視聴しながら、正午に黙禱し、この文章を書き起こしている。天皇陛下のゆったりとした、かつ明瞭なお言葉に、「世界の平和と我が国の一層の発展を」祈る気持ちになった人も多いことだろう。
私ごとだが、7月の下旬に叔父が他界した。89歳だった。神奈川県で隣り町に住んでいたため、大学を卒業するまではよく従兄弟たちと双方の家を行き来して、叔父にもかわいがってもらったのだが、その叔父が往時、「自分は特攻隊員になる覚悟を決めていた」と話してくれたことがある。詳細を聞いておくべきであったと悔やまれる。
叔父は千葉県の出身で、旧制安房中学校に通っていた。昭和20年(1945年)には、満15歳から16歳となる年齢だったはずだ。本日参照させていただいた「特定非営利活動法人 安房文化遺産フォーラム(旧名称:南房総文化財・戦跡保存フォーラム)」による「戦跡からみる戦時下の館山≪(1999年)豊津会例会報告レポート/報告「戦跡からみる戦時下の館山」≪豊津会例会(1999年)≫」によると、同年5月31日には館山市でも国民義勇隊が結成されたとある。そして6月22日には義勇兵役法が施行され、「15歳以上~60歳以下の男子および、17歳以上~40歳以下の女子に義勇兵役を課し、必要に応じて国民義勇戦闘隊に編入できることとした(第2条)。年齢制限外の者も志願することができた(第3条)。」(ウィキペディアより引用)という、「本土決戦」にそなえた抜き差しならない状況に至っていたようだ。そんな状況下、中学4年生だったと思われる叔父も、かつて幼い私に語ってくれた決意を固めていたのだろう。房総半島からは、「震洋」という「モーターボートに爆薬を装備して敵艦に激突させる」(引用 同)特攻兵器が出撃していた。叔父に昔日聞いた話はその「震洋」の内容と一致していたし、先に引用した「安房文化遺産フォーラム」のレポートに記されている安房地方の切迫した状況の中で、当時の若者には避けることのありえない道だったのだろうか。
叔父は幸い、出撃には至ることなく、戦後長寿を全うしたが、一時は死を覚悟した青春期を送ったのだ。一昨年の本稿では8月14日の光海軍工廠空襲(山口県)で亡くなった女学校3年生の女性のことを書いたが、現在私が塾で指導する生徒と同じ年代の方たちが、青春らしい青春を知ることもなく、尊い命を失ったのが、遠い世界のことではない、わが国の過去の現実なのである。これからの長い世を生きる若者たちのためにこそ、私自身が知り得た過去を彼らに伝えて行くことを、従前以上に自らに課すことを、今日の私の決意として記しておく。
令和元年(2019年)8月15日
小田原漂情