2016年8月9日に
今日10月26日は、故灰田勝彦先生のご命日であり、私にとって特別な日に当たります。言問学舎塾長ブログの文章を、そのまま転載させていただきます。
われわれが中学生の頃の音楽の教科書には、アメリカ民謡の『峠の我が家』が載っていた。今はどうなのか、ときどき期末テスト前に子どもたちに持って来させる教科書では、あまり見かけないように思われる。試みにネットで検索してみると、昔の教科書に載っていて今は載っていない歌というような記事がいくつかあって、『峠の我が家』の名も見出される。
国語の教科書でも、文学作品の取捨、変遷はあることだから、いつ頃まで載っていたのかということに関心はあるし、さびしいことだとも思うけれど、私個人としては、学校の音楽の教科書に載っているかどうかという点よりも、この歌にもっと深い、大きな思いがある。そのことをお話ししたいと思う。
日本では、この歌は昭和15年(1940年)に灰田勝彦先生が歌われて、レコードになっている。お兄様の晴彦先生(のち改名されて有紀彦先生)が編曲なさり、佐伯孝夫さんの訳詞で、この時はすべて日本語の歌詞で歌われた。戦後は2番が英語の歌詞で、ステレオ盤では勝彦先生が本物の英語でお歌いになったレコードが、いくつかあるのだ。
そしてどちらのアレンジでも、最後は灰田勝彦先生の美しいファルセット(裏声)が、この牧歌的な佳曲を締めている。また、前奏はスチールギターの美しい音色で、灰田晴彦先生の演奏であると考えられる。晴彦先生がモアナ・グリークラブを立ち上げられ、ハワイアンを日本に紹介なさったことは折にふれ書いて来たが、スチールギターも勝彦先生のファルセットも当時の日本には例のなかったもので、晴彦先生も勝彦先生も、観客が勝手に照れてしまうというような、草創期の苦労をなさったのだと聞く。
私個人は、36年前の10月26日に勝彦先生がお亡くなりになり、大変なショックを受けた。その時私は19歳だった。そして『アルプスの牧場』を何とか歌えるようになりたい、その一心で、声の出し方もわからない裏声のファルセット(『アルプスの牧場』などではヨーデルと言う)を毎日手さぐりで練習した。そして2か月を過ぎたころ、ようやくそれらしい声が出るようになったのだが、この時の経験が、その後の私の生き方のもととなった。すなわちどんなことにも挑戦するし、最後まであきらめないという、ものごとへの取り組み方である。さらに二十代の半ばごろには、人との付き合い方や人間性までが、十代のころとは大きく変わった。まことに灰田勝彦先生は、私にとって命の恩人なのである。
その先生のご命日である今日、十数年前からのならいであるお墓参りにお邪魔し、ご墓前にご報告させていただいた上で、『峠の我が家』を歌わせていただいた。編曲とスチールギターの演奏が、10日前に書かせていただいた有紀彦先生だから、ご兄弟への感謝の念を込め、歌わせていただいた次第である。書き、語り、歌いつづけることで、先生方への感謝の思いを、いつまでも形あるものとして行きたい。それが今年の、私の存念のすべてである。
峠の我が家 小田原漂情(歌唱/YouTube)
平成30年10月26日
小田原漂情