2016年8月9日に
6日、9日につづきまして、毎年書きつづっている本日のブログを、常体のまま転載させていただきます。
私の塾では毎年8月、おもに小学6年生から中学3年生の生徒たちに対し、戦争に関する文章や作品を用いて、国語の授業を実施している。私自身、戦後17年以上経ってからの生まれであり、直接に戦争を経験しているわけではない。従って、それらの文章や各種の映像・資料、書物の中でもドキュメンタリーを主とした内容のものなどから、あの戦争のことをとらえて来た一人である。
今日、8月15日、長い戦争が終わってから71年という日を迎えた。長寿国と言われるわが国でも、これだけの年月を経れば、直接戦争を体験した方の数は、減って行く。広島や長崎で被爆された方たちの平均年齢はすでに80歳を越しているし、今日とり行なわれた全国戦没者追悼式に出席している遺族の8割近くが、71歳以上の方たちだという。
8月9日にも書いたが、今年の長崎平和宣言では「被爆者に代わって子どもや孫の世代が体験を語り伝える活動が始まっています」というメッセージが、長崎市長から発せられた。原爆、戦争を実際に経験した方々が伝えてくれる「現実の話」に耳を傾け、深く受けとめて、もっと後の時代の人たちに、伝えること。私どもの年代は、もはやそのことにためらいを持つべき年代ではない。
私自身があの戦争のことを知るようになり、学びとった昭和40年代、50年代は、立場や思考の違いにかかわりなく、悔やみ、悼む思いが、ほとんどの媒体に通底していた。こんにちと異なり、語り伝える立場の人も、作る立場の人もひとしく戦争を経験し、その酷さと悲しみを身に沁みて知っていたからだろう。実感を伴わない「情報」として往時に触れる時、こんにちのあり方がともすれば二極化にならんとしていることに危惧を覚えるのは、私だけではあるまい。
本日の全国戦没者追悼式での天皇陛下のお言葉の中には、「過去を顧み、深い反省とともに、今後戦争の惨禍がふたたび繰り返されないこと」を(8月8日に『お気持ち』をお伝え下さった際と同じく)、「切に願い」という表現がみられた。この陛下の深いお心を国民がともに戴くことこそが、子どもたちに平和な未来を受けわたして行くために、何より大切なことではないだろうか。私においても、なすべきことは多い。
2016年8月15日
小田原漂情