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コラム
ひきつづき、髙村光太郎の「元素智恵子」をアップしました!
2015年6月17日 公開 / 2017年2月21日更新
高村光太郎と智恵子(旧姓長沼)は、大正3年(1914年)12月に結婚します。住んだのは、駒込林町(現在の文京区千駄木5丁目)にあるアトリエで、智恵子は2階の一室に機織り機を置き、「トンカラ機を織る」生活をしていました(「同棲同類)。
その智恵子は、昭和6年(1931年)ごろから精神を病み、転地、入院ののち(この入院生活であの美しい紙絵が生まれました)、昭和13年(1938年)10月5日に、粟粒性肺結核のために世を去ります。すでにご紹介した「レモン哀歌」で、「あなたの咽喉に嵐はあるが」と表現されているのは、この肺結核によるものです。また「梅酒」では、「七年の狂気は死んで終つた」の一行もみられます。
さて、「元素智恵子」は、昭和24年(1949年)10月に書かれ、先にご紹介した「案内」などの計6篇が『智恵子抄その後』として、『新女苑』25年1月号に発表されました。この作品が書かれた時点で、智恵子没後11年が経過しています。
「元素」とは、化学の領域の「元素記号」であらわされる「元素」のことです。この頃に至って、光太郎における智恵子の存在は、故人でも、なつかしい存在でもなく、肉体はなくなったが、元素に帰して身の回りに実存し、毎日を共に生きている、そんな存在となったのだと言います。
旺文社文庫『高村光太郎詩集』(北川太一編)の「元素智恵子」の脚注には、このことを語った光太郎の言葉が引かれています。何よりも雄弁な資料ですから、引用させていただきます。
<この詩に触れて、作者は語る。「ありゃあ本当ですね。智恵子を思い出すのなんのっていうんじゃなくて、体の中にちゃんといるわけですね。その形でいるんじゃない、ちゃんと元素になっているんです。ひょっと何かやろうとすれば一緒に働いているわけで、そういうことは僕は本当だと思うんですよ。」(昭和28年対談「芸術と生活」)>
このことは、『智恵子抄』、また光太郎と智恵子のことを知る上で、とても重要なポイントであると思います。この「元素智恵子」の朗読を、昨日YouTubeにアップしましたので、ご報告させていただきます。
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