小説『遠つ世の声』を刊行(電子書籍/Kindle)しました!
1997年10月から現在に至るまで東京と長野を結んで来た「長野(行)新幹線」が、来春金沢までの運行を始めるわけですから、多くの方の関心も、もちろん「新規開通区間」にあることと思われます。わたくしとしても、少しく知るところをお話しして行きたいと思います。
長野駅を出てから、隣りの新潟県を通り抜ける間、北陸新幹線は、これまでの鉄道の経路とはかなり違う道順をたどります。すなわち、現在のJR「信越本線」は、長野の二つ先の豊野駅で飯山線を分岐すると、そのまま黒姫、妙高という名峰の足もとを抜け、新潟県の新井、高田へと下って行きました。ちなみに妙高高原駅(旧妙高高原町)、新井駅(旧新井市)のあたりが、今は「妙高市」として、ひとつになっています。
さらにさかのぼった昭和46年(1971年)に、高田駅の高田市と直江津駅の直江津市が合併して、上越市が誕生しています(その後、さらに「平成の大合併」で、周辺の町村と合併)。高田は「雁木通り」が有名な古い城下町で、まだ長野新幹線が開業する前の信越本線の特急「あさま」の(碓氷峠でEF63と協調運転をする)時代に、ここで仕事を終え、「あさま」に乗ってゆったりと出張帰りの帰京を楽しんだ記憶が、今でもあざやかによみがえります。
ところで、私の手元に、『国鉄全線各駅停車‐中央・上信越440駅』(小学館)という、鉄道を文章で描写する私にとって、バイブルのような本があります。この「中央・上信越」篇だけは、学生時代に新刊で買ったものです。
その中の飯山線「飯山駅」の項には、飯山市が全力で、「北陸新幹線を飯山経由で」と運動していることが、記されています。ちなみにこのシリーズの編集委員は、あの宮脇俊三さんと原田勝正さんです。
この本は、1983年初版発行です。東北(6月)、上越(11月)新幹線が、相次いで大宮から「暫定開業」した翌年です。その14年後に「長野新幹線」が開業し、さらに17年半後、つごう31年と半年を経て、『中央・上信越440駅』に書かれていた通り飯山経由で北陸新幹線が長野から金沢まで轍を刻むことに、不思議なものを感じます。
ちなみに、当時新幹線誘致のために飯山線の沿線に立てられていた看板には、「ひかりを飯山へ」と書かれていたことが、『中央・上信越440駅』の記述に見えます。「のぞみ」「はやぶさ」をはじめ多くの新幹線列車の愛称名がきらびやかに居並ぶ現在、この言葉の意味がぴんと来ない方も多いことでしょう。
当時、新幹線と言えば、「ひかり」がその代名詞だったのです。この本が出版された時には、もう東北新幹線の「やまびこ」「あおば」、上越新幹線の「あさひ」「とき」が誕生していますが、飯山線沿線の看板が立てられたのはそれ以前でしょうし、「のぞみ」どころか東海道新幹線の二階建て車輌100系が登場するのも、まだ2年先だという頃です。少なくとも、1983年当時この本で「ひかりを飯山へ」という言葉を目にした時に、まったく違和感はありませんでした。
そしてもう一つ。「ひかりを飯山へ」の記述がある飯山駅の項目には、こう書かれています。「かねて発表された北陸新幹線計画は、長野から飯山街道沿いに高田へ出るほうが、信越本線経由よりも地勢上有利らしく・・・」。当時、まだルートの詳細は決定されておらず、長野からのルートも決まっていなかったわけですから(だから飯山市が誘致)、当然、上越市内では高田駅を通るものと考えられていたのでしょう。
実際には、北陸新幹線の「上越妙高」駅は、信越本線で新井と高田の中間に位置する脇野田駅に接する形で設置されました(在来線→えちごトキめき鉄道にて、脇野田駅が上越妙高駅となります)。なぜ脇野田駅が選ばれたか、すなわちなぜ高田や春日山、そして直江津に「上越」駅がつくられないのか、それは上越市と妙高市の間をとるという配慮もありましょうが、より大きくは「線形」、つまり一分一秒でも早く富山、金沢へ至る「速達性」をもとめたことによるのだと思われます。
豊野から黒姫、妙高高原へ至る道すじの光景は、今でもまなうらに焼きついています。あと半年で「しなの鉄道」に組み入れられるその区間や、新井や高田の町の思い出など、次回にお話ししたいと思います。
国語力に定評がある文京区の総合学習塾教師
小田原漂情
文京区の総合学習塾・言問学舎HP
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