小説『遠つ世の声』を刊行(電子書籍/Kindle)しました!
今年は、8月6日、9日の両日に、例年塾長ブログにだけ記している、その日の文章を掲載させていただきました。ひきつづき、今日15日のものも、転載させていただきます。常体である点、ご容赦下さい。
例年通り、全国戦没者追悼式をテレビで見て、正午に黙禱。そして考えた。
朝のネットのニュースでも関連記事を読んだが、今年、「零戦(旧日本海軍の零式艦上戦闘機)」を、国内の戦争に関する資料館等の施設で展示するという報が、目についた。ある施設の方の意見として、「本当に来館者に見てほしいのは、戦争の悲惨さを伝える資料の方だが、来館者を増やさないことには、それらを見てもらうことができない。そのために零戦(の実物大模型)の展示は有効だ」(大意)という言葉が伝えられていた。そして、「『零戦はかっこいい』では、終わらないはずだ」、とも。
実際に現場で零戦の展示に当たる当事者の言葉だから、安易に批判をするつもりはない。「かっこいいで終わらない」ようにするために、能(あた)う限りの力を尽くしていただきたいと、願うのみである。だが、零戦にしろ戦艦大和にしろ、メディアや映画などが伝えている描き方は、どうなのだろうか。
私自身も、もちろん戦時を経験した立場ではなく、かつて記録や文章や映像等(アニメ化された作品を含む)で、往時のことを伝えられて知り、学んだ身である。「伝えよう」という行為がなくなってしまったら、それこそ不幸な、悲惨な過去を学ぶ機会が失われ、若い世代にわが国の戦争のことを知ってもらう可能性が少なくなるわけだから、「伝える作品」があることは、重要なことだと考えている。
しかし、その描き方、描かれ方は、はたして、「かっこいいで終わらない」ものなのだろうか。これも当然のことながら、私が四十年前、三十年前に「学んだ」時代と現在とでは、「作り手、書き手」の大半が、実際に戦争を経験した年代の方たちから、戦後生まれの世代に変わっている。昭和50年(1975年)前後と現在とでは、その「暗黙の前提」に、非常に大きな違いがあるように思われるのだ。
塾に来ている子どもたちが、零戦や大和、その他の兵器のことを、子ども同士で話しているのを、耳にすることがある。すぐには口を挟まないが、時々、やはり、「かっこいい」とだけとらえて終わって欲しくない、と感じることがある。私もその子たちと同じ年ごろには、零戦や大和をはじめ、旧陸海軍の艦船や飛行機のほとんどのプラモデルを作り、ある時までは、「かっこいい」と思っていたものだ。
だが、大切なことは、「そこから何を学ぶか」だと思う。零戦に代表される初期・中期の日本軍の航空機は、防弾(すなわち搭乗者の生命を守る)面が貧弱で、そのために戦死された搭乗員も多かったのだという。そして周知の通り、末期には特別攻撃で帰還の見込みのない方たちが、その操縦席に身をあずけ、出撃された。
零戦の展示を見る人たちには、その操縦席に、自分と齢の変わらない、あるいはずっと若い方たちが、その「命」を乗せて行ったのだということを、思いみて欲しい。そして、現在あの当時のことを語って下さる経験者の方たちの言葉に、耳を傾けて欲しい。もちろん私自身も、いま語り残して下さる方々の思いをしっかり受け止め、これまで身に受け取って来た多くのことどもとともに、「(受け継ぎながら)伝える立場」であることを銘じて、能う限り、為すべきことを為さねばならぬと誓う次第である。
平成26年8月15日
小田原漂情